日本史上屈指の忠臣として名高い楠木正成はなぜ戦いに敗れ去ったのか?~英雄に学ぶ「失敗」と「教訓」~
今月の歴史人 Part.4
歴史には「勝者」と「敗者」が存在するが、勝者はその事績が華々しく語り継がれていく一方、敗者は「先を見通せなかった愚かな人物」として描かれることがある。だがしかし敗れていった者たちにも正義はあり、そのなかにこそ「気づき」や「学び」、そして歴史の真の姿があるのかもしれない。源氏や足利氏をはじめとして、多くの政権が誕生しては没落していった中世においてもしかり。今回は鎌倉時代末期に活躍した楠木正成の「失敗」の本質を考察しながら、教訓や気づきを得てみよう。(『歴史人』9月号「『しくじり』の日本史 ─70人の英雄に学ぶ失敗と教訓─」より)
楠木正成から学ぶ[失敗のケーススタディ]
▶湊川の戦いで敗れたのはなぜか?
楠木・新田軍の敗北を決定付けた3つの条件

皇居の前に立つ楠木正成像日本日本三忠臣のひとりに数えられる楠木。元弘の乱では千早城の戦いで籠城戦を展開し、 何十倍もの兵数で攻め立てる幕府軍を相手に 智将ぶりを発揮。軍略で圧倒し、名称として語り継がれた。
湊川の戦いは、建武3年(延元元、1336)5月25日に新田義貞・楠木正成からなる建武政権の軍勢が、摂津国湊川(神戸市兵庫区)で大敗を喫した合戦である。この合戦で楠木正成・正季兄弟が自害して果てた。そして、京都を奪還した足利尊氏によって室町幕府が樹立され、義貞は北陸へ、後醍醐天皇は吉野へと離散し、建武政権の崩壊を招いた合戦である。

正成を打ち倒した足利尊氏の銅像室町幕府の創設者として名声の高い尊氏。足利氏ゆかりの地である栃木県足利市に立つ。
楠木・新田ら建武政権側の敗因はいくつかある。
第一に、兵力に絶対的な差があったことである。それはこの年2月に足利軍が豊島河原の戦いで敗れ九州に走った際、新田義貞がこれを追撃したのだが、途中播磨の赤松円心に遮られて進軍することができず、その間に足利軍の体勢立て直しを許してしまったためである。さらに、尊氏が奉じた光厳上皇の院宣が有効に働き多くの西国武士を動員することができた。
第二に、足利 軍が陸路の直義軍と海路の尊氏軍に分かれて進軍したことである。これに対して建武政権側は海軍を持たず、海岸に臨む狭小な湊川の地形を制することができなかった。
第三に、そもそも開戦前、正成は義貞と決別し、尊氏と連携してこそ建武政権の安定があると考えていたが政権側に一蹴されていたことなどが指摘できる。

智・仁・勇の三徳を備え聖人として楠木正成を祀祀る湊川神社。
監修・文/簗瀬大輔
(『歴史人』9月号「『しくじり』の日本史 ─70人の英雄に学ぶ失敗と教訓─」より)