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幕末維新の先駆者であった吉田松陰はなぜ処刑されてしまったのか?

今月の歴史人 Part.2


歴史には「勝者」と「敗者」が存在するが、敗れていった者たちにも正義はあり、その中にこそ「気づき」や「学び」、そして歴史の真の姿があるのかもしれない。今回は明治維新で活躍した志士たちを育て上げた、開明の先駆者である吉田松陰の「失敗」から教訓を得てみたい。


吉田松陰から学ぶ[失敗のケーススタディ]
時代の先駆者であった天才はなぜ処刑されてしまったのか?

 

▶▶▶先進的な理念が時代の先を行き過ぎて同調者を見つけることができなかった

吉田松陰像/吉田松陰は、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、高杉晋作など、新時代を席巻する逸材たちを育て上げた。

 長州(ちょうしゅう)藩士として生まれた吉田松陰は松下村塾(しょうかそんじゅく)で若手藩士の育成に努めたが、尊王攘夷を実現するには、藩などの枠組みを越えて国内の志士たちが結集することが必要と考えていた。当時の長州藩は幕府への遠慮から、野山獄(のやまごく)へ投獄するなどして松陰の行動を束縛したため、おのずから藩士としての行動に限界を痛感したのである。

松下村塾/階級や身分を問わず塾生を受け入れ、のちに 明治新政府を支える人物たちを輩出した。

 松陰は「草莽崛起(そうもうくっき)」を唱える。藩士とは違って行動が束縛されることのない草莽、つまり国内の在野の人々を立ちあがらせることで、尊王攘夷を実現しようと考えた。そして日本民族固有の精神・大和魂をスロ ーガンとして打ち出すことで、藩の 枠を越えた運動が沸き起こるのを期待したが、これは天皇を中心とした 近代国家造りを先取りする思想だった。

 

 しかし、藩内に同調者はおらず、周囲の説得も受け付けなかった松陰は孤立する。周りが見えなくなった結果、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)襲撃計画を幕による吟味(ぎんみ)の場で申し立てる行動に走ったため、極刑に処せられるが、その死は門下生たちを奮い立たせる。松陰の遺志を継ぎ、藩の枠を越えた尊王攘夷運動が繰り広げられることになるのである。

 

監修・文/安藤優一郎

『歴史人』9月号「『しくじり』の日本史 ─70人の英雄に学ぶ失敗と教訓─」より)

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