筑紫君磐井が敗れたのは裏切られたから?ーー「しくじりの日本史・古代史編」こぼれ話
「歴史人」こぼれ話・第15回
筑紫磐井の乱は、継体天皇22年(528)に物部麁鹿火(もののべのあらかび)が筑紫の三井郡で交戦し、磐井を斬って鎮圧した戦乱とされている。しかし一説では、侵略軍である倭王権が裏で干渉し、領土を餌として九州勢力を内部から崩壊させたともいわれている。当時の九州古代豪族の関係性から、その真実を探る。
物部麁鹿火と大伴金村(おおとものかなむら)らが倭王権側に寝返らせたか?
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筑紫の磐井の墓とされる岩戸山古墳群・石人像/フォトライブラリー
応神天皇5世の孫として、物部麁鹿火や大伴金村に推戴されて皇位を継いだとされる継体天皇。その即位22年目に起きた最大の危機と言えるのが磐井の乱である。
『日本書紀』によれば、その前年、筑紫の君の磐井が新羅(しらぎ)と組んで、任那(みまな)へと向かう近江毛野(おうみのけの)が率いる6万の軍勢の進軍を阻んで反乱を起こしたという。
早速、追討の大将軍に麁鹿火が任じられるが、その際の天皇の言として、「筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思うようにせよ」と言わしめている。よほど危機感に苛(さいな)まれていたのだろう。
結局、麁鹿火は筑紫の三井郡で交戦し、磐井を斬って鎮圧したとしている。
しかし、これを磐井側からの視点で見てみると、倭王権こそが侵略軍で、九州勢力は、当時、筑紫君(つくしのきみ)と火君(ひのきみ)を柱としながらも、阿蘇君(あそのきみ)や水沼君(みぬまのきみ)などとも連合する独自の勢力を築いていたのである。その上で、新羅などとも積極的に外交関係を結んでいた。ここに割り込んできたのが、倭王権であった。
磐井が新羅から賄賂を受け取ったなどと言うのは、倭王権側が磐井を陥れるために公言したに過ぎない。磐井が元から倭王権に服していたというよりも、むしろ、そもそも独自の政権を築いていたところに倭王権が干渉しはじめたと見るべきだろう。
ともあれ、倭王権に対抗しうる一大勢力を有して、その盟主的な存在であった磐井を正攻法で打ち破ることには危険が伴った。
そこで用いたのが、九州勢力を内部から崩壊させるというものであった。
筑紫方面に火君が勢力を拡大し阿蘇君や水沼君を従えたが‥
肥後の沿岸部に勢威を張る火君に、磐井亡き後の故地を与えるとの餌をちらつかせて、王権側に寝返らせてしまったのである。
磐井君と火君は、同盟のための婚姻関係で結ばれていたが、王権側のこの甘い言葉と、その勢力の大きさに屈し、ついには磐井君と決別したのである。こうして、内部崩壊によってむしろ自滅した形になった九州勢力は崩壊し、倭王権の思惑通り、九州全土にまで権勢を広げることに成功したのである。
乱の終結後、火君が筑紫方面に勢力を拡大したことは言うまでもないが、それも一次的。律令期にかけて発展を遂げていたものの、次第に凋落していったとのことである。