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七人の子供たちの人生 ――「日本の資本主義の父・渋沢栄一の真実」こぼれ話

「歴史人」こぼれ話・第10回

栄一の遺伝子が流れる七人の子はいずれも栄達を遂げた錚々たる面々

渋沢栄一/国立国会図書館蔵

 渋沢栄一は、天保11年(1840)に誕生し、昭和6年(1931)に没した。その間、実業家として大活躍し、誰もが知る有名企業の経営に関わった。そして、その子供たちも実業界で手腕を振るった。

 

 栄一の最初の妻は、父方のいとこである尾高惇忠(おだかあつただ・1830~1901。富岡製糸場の初代場長)の妹・千代(1841~82)である。

 

 千代との間に生まれたのが、歌子、琴子(ことこ)、篤二(とくじ)の3人の子だった。3人の子供たちの略歴は、次のとおりである。

 

・長女:歌子(1863~1932)―枢密院(すうみついん)議長・穂積陳重(ほづみのぶしげ)の妻。
・二女:琴子(1870~1925)―大蔵大臣・阪谷芳郎(さかたによしろう)の妻。
・長男:篤二(1872~1932)―澁澤倉庫会長など。

 

 いずれも栄達を遂げた。しかし、千代はコレラにより若くして死去。

妻・千代の姪にあたる尾高ゆう。尾高惇忠の長女として万延元年(1860)深谷市下手計(しもてばか)に生まれる。父の惇忠が建設した富岡製糸場で、明治5年(1872)に14歳のゆうは伝習工女の第1号となった。募集が困難を極める中、工女に志願した若い頃の肖像(個人所蔵)。渋沢栄一記念館提供

 栄一は後添(のちぞ)えとして、兼子(1852~1934)を娶(めと)り、次のとおり4人の子供をもうけた。

 

・二男:武之助(1886~1946)―石川島飛行機製作所2代目社長など。
・三男:正雄(1888~1942)―石川島飛行機製作所初代社長など。
・三女:愛子(1890~?)―第一銀行頭取・明石照男の妻。
・四男:秀雄(1893~1984)―東宝取締役会長など。

 

 やはり、みな栄達を遂げている。

 

 ところが、栄一は大変な遊び人だったと言われており、妾(めかけ)を多数抱えていた。その数は正確に把握するのは難しく、20人あるいは50人とも伝わっている。実際には、上記以外にも子供がいたのは事実である。

 

 なお、栄一の長男・篤二は芸者遊びが過ぎて廃嫡(はいちゃく)になり、篤二の長男・敬三(日本銀行総裁、大蔵大臣など)が代わりに跡を継いだのである。 

尾高惇忠の生家二階。知行合一の水戸学を学んだ惇忠から、栄一はいとこの渋沢喜作らとともに尊皇攘夷論や日本古来の道義を学んだ。幕末に高崎城乗っ取りの謀議を行ったとも伝わっている。渋沢栄一記念館所蔵

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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