渋沢栄一は米ひとつでいくつもの事業の種を見出していた!
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
現在放送中の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。後に近代の日本経済に大きな足跡を残すこととなる渋沢が、幕末の動乱期をいかに過ごしたかが、現在のドラマの舞台だ。6月13日(日)に放映された第18回では、篤太夫(=栄一、吉沢亮)が再び諸国を巡歴し、農兵を募集するシーンが描かれる。この回で篤太夫は、後の実業家を彷彿とさせるような、武士らしからぬ才覚を発揮することになる。
諸国を巡って一橋家の財政政策を着想

岡山県井原市に建つ興譲館跡。渋沢が開国派の阪谷朗廬と出会った場所で、二人は攘夷か、開国かで大いに語り合ったと伝えられている
今回の放送は、水戸浪士で結成された天狗党の討伐に渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)らが出兵するところから始まる。しかし、渋沢成一郎(=喜作、高良健吾)が一橋慶喜(草彅剛)からの密書を持って天狗党党首の武田耕雲斎(たけだこううんさい/津田寛治)を説得したことにより、武力衝突は回避された。せめて温情ある処置を願った慶喜は、捕縛された浪士の身柄を引き受けたいと申し出たが聞き入れられず、幕府の手に引き渡された。
その後、篤太夫は小十人(こじゅうにん)並という身分に出世。一橋家が諸藩の藩士らと交際する宴会に、黒川嘉兵衛(くろかわかへい/みのすけ)と随行していた。連日宴会が続いていたある日、耕雲斎をはじめとした天狗党の面々が斬首されたとの知らせが慶喜や篤太夫のもとに届く。一橋家が天狗党を取り込み、いずれ反乱を起こす火種になると判断した幕府の裁定だった。成一郎は「あれが俺たちの信じた攘夷の成れの果てだ」と叫び、今後は攘夷より一橋家を守るために働くと決意。一方、国を想う者たちへのあまりの仕打ちに、篤太夫は激しく動揺する。成一郎のように、すぐには答えが見つからなかった。
そこで篤太夫は一橋家の兵備を増強することを慶喜に提案。もっと丁寧に一橋家の領地をまわれば、300の農兵を連れてくることができると主張した。
これを受け、慶喜は篤太夫を歩兵取立御用掛(ほへいとりたてごようがかり)に任命。篤太夫は備中へ旅立った。代官の抵抗により、最初は思うように人が集まらなかったものの、漢学者の阪谷朗廬(さかたにろうろ/山崎一)が講師を務める興譲館に通い詰めて書生たちの信頼を勝ち得るなどして、大勢の兵を集めることに成功。任務を遂行した。
京に帰った篤太夫は、慶喜に謁見。その席で篤太夫は、兵の次は一橋家の懐具合を整えたいと言いだした。つまり、価値の分かる者に領内の良質な米や木綿を高く売り、豊富に取れる硝石(しょうせき)をさらに奨励することで一橋家を豊かにし、より強くしたいと提言した。
その提案を高く評価した慶喜は、篤太夫に新たな役割を任じるのだった。
実業家・渋沢の才覚が顔をのぞかせる
今回は、いよいよ渋沢が後に実業家として活躍する片鱗を見せる回となった。
「300は集められる」と公言し、試行錯誤しながら農兵を集めた渋沢は、最終的には450人ほどを集めている。彼の自伝である『雨夜譚』によれば、当初の目標はもっと高く、「1000人くらいは」と建言していたようだ。
同書には、そもそもの提言は慶喜に直接行ったのではなく、慶喜の側近である黒川に対してだったとある。まずは黒川に提案し、黒川から慶喜に伝えられ、それからようやく慶喜に直接進言する機会を与えられている。その間に、3日を経ていた。このことについて渋沢は、「拝謁(はいえつ)ということはずいぶん尋常の格式からいうと面倒なもの」と語っている。
さて、そんな武士のしがらみの中にいた渋沢は、ドラマの最後には、各地を見て回った彼ならではの「財政政策」を提言している。すなわち、先述した米、木綿、硝石を扱う商売の提案である。
ドラマの中では、米を入札払いにすることを口にしている。そうすれば、安く見積もっても5000両の利益があると語り黒川らを驚かせているが、実は、渋沢は年貢米として流すだけでなく、さらに領内の西宮や灘といった酒どころで儲けている酒造家たちに、酒の元米として買わせることも同時に勧めていたようだ。渋沢は武士として各地をめぐるなかで、こうした事業の種を見つけていたのだ。
「商売」は、町人や商売そのものを下に見ていた当時の武士ではなかなか発想できないもの。この頃に至っても渋沢は攘夷に燃えていたが、その一方で、後に実業家となる才覚が、ここから徐々に発揮されていくことになる。