徳川大坂城の「カッコ悪い」終焉の裏側とは?
天守閣学芸員が語る 知られざる大阪城の歴史 第1回
戦の舞台とならずに炎上してしまった大坂城
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大坂城を脱出した徳川慶喜が天保山沖で大坂城を振り返る。 「徳川治蹟年間紀事」の内 十五代徳川慶喜公 月岡芳年画(大阪城天守閣蔵)
大坂の陣の後に徳川幕府が築き直した大坂城は、江戸時代を通じて幕府による西国支配の拠点としての役割を果たした。幕末になると14代将軍家茂(いえもち)、15代将軍慶喜(よしのぶ)が相次いで入城するなど、政治拠点としての存在感を急速に高めたが、戊辰戦争が始まった慶応4年(1868)正月に炎上してしまう。これは旧幕府軍が城を拠点に堂々と新政府軍と戦い、奮闘むなしく敗れて炎上したのではない。彼らは戦う前に逃げたのだ。
きっかけは正月6日深夜の徳川慶喜脱出である。3日前に起きた鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、開戦前まで存在した慶喜の新政権参加という可能性は消し飛んだ。その後も旧幕府軍は敗北を重ねながら大坂側へ退却する。慶喜はこうした報告を受けてひそかに大坂城をあとにし、海路江戸へ向かった。翌日に主君の不在を知った兵士たちは戦意を失い、次々に撤退を始めた。混乱に乗じて野次馬が入り込み、めぼしいものを見つけては略奪するというあさましい光景も見られた。火災はそのさなかに発生したのである。
庶民がとらえた慶喜の退去と大坂城炎上
大阪城天守閣には、当時大坂市中に出回った瓦版をはじめとする摺物(すりもの)が多く所蔵されている。
慶喜の退去については、
「大坂城にもたまりゑず、同七日主従わづかの小勢にて泉州堺へ落行、町屋へ火を放ち、其ひまに乗舟して本国さして逃行ケる」
「城中に火をかけ、廿七騎トわつかの勢をつれ、安治川口より乗船し、にけ行ケる」
「城ニもたまらず、兵粮用金、士卒も捨置、夜逃と出かける」
など、事実誤認も多いが基本的には「逃げた」ととらえている。また「毒川・一ツ恥(徳川・一橋)」「賊徒の異名ハ末世の後まですすげハせぬ」「じょうき船に身をかくし、江戸へいこうか、異国へいかうが、五三日をうろうろと」など、かつての将軍を散々におとしめている。
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相撲の取り組み表に見立てて徳川の敗走を風刺する。最初の力士の名は「毒川」と「一ツ恥」。 戊辰戦争風刺見立て取り組み表(大阪城天守閣蔵)
大坂城の焼失については、
「正月九日卯之刻、御城筋がね御門ノ内火の手上ル。次ニ京ばし御門内、夫(それ)より玉造御門外小家、夫より火の手三ツに成。追手御門の内火の手二つになり、十日辰の刻ゑんしよぐら(焔硝蔵)やける」
「十日辰ノ刻ゑんしよう蔵やけはぜる。其音あたかも天地のくずるるがごとし。遠国までもひびきけりとかや。辰正月十一日夜御火鎮り」
などと報じる。9日の卯刻(朝6時ごろ)に筋鉄門(すじがねもん)の内側から火の手があがり、ついで外堀をはさんだ二の丸側の京橋門内が燃え、やがて玉造門外の小屋からも出火して火の手が3つになり、さらに大手門の内側でも火の手が2つあがったとある。火の手の数をあげるのは、城の外側から観察したからだろう。
そして10日の辰刻(朝8時ごろ)の焔硝(えんしょう)蔵爆発を驚きとともに伝える。鎮火は11日夜である。ちなみに爆発したのは、正しくは今の大阪ビジネスパーク内にあった焔硝場(火薬製造施設)である。
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大坂城の焼失を報じた瓦版。 戊辰戦争大火図(大阪城天守閣蔵)
居残った幕府役人の意地
出火の状況については、城の新政府方への引き渡しを慶喜に命じられ本丸御殿にいた、目付の妻木頼矩(よりのり)の証言も参考になる(『妻木頼矩手記』)。
撤収と略奪が続いていた9日の朝、東北方面から砲声が聞こえ、青屋口付近の兵舎が燃えているとの報告が届いた。これが長州藩によるものと知った妻木は白旗を門の外で振らせて砲撃をやめさせ、本丸を訪れた長州軍の参謀佐々木四郎二郎からの尋問に、もっか新政府方(松平春嶽/しゅんがく・徳川慶勝)への引き渡しの手続き中であることを説明した。そのやり取りの最中に本丸御殿の台所から火の手が上がったことから、一同は大手口内側の大手大番所に移ったが、この周辺でも火の手があがっていたため、結局妻木は城を出て待機したという。
妻木は、自身を含めた旧幕府方の人間による放火の疑いを強く否定した。そして、長州藩の放った砲弾が城内の火薬に引火した、あるいは燃えた兵舎の火の粉が強風にあおられて燃え移ったと推測するが、長州兵が城内に入り込んで放火したとの浮説には「入城は炎上のあとであり、長州人に限ってそのようなことはない」と断言する。
徳川大坂城の終焉は、豊臣大坂城に比べるとたしかにふがいなく、歴史の名場面としての注目度は低い。だがその「ふがいなさ」のおかげで、大坂の人々は徳川の世の終わりを納得して受け入れることができたこともたしかだ。また、その「ふがいなさ」の裏側では、城の引き渡しという報われない役目に従事し、炎上という不本意な結果に終わっても敵に責任を押しつけず、武士としての矜持を示した気骨ある幕臣がいたことも記憶にとどめておきたい。
※幕末の大坂城の様子や入城した徳川将軍に関しては図録『幕末大坂城と徳川将軍』を、また大坂城炎上にかかわる瓦版などに関しては図録『瓦版にみる幕末大坂の事件史・災害史』をご覧ください。
執筆:大阪城天守閣 研究主幹 宮本裕次
大阪城天守閣
https://www.osakacastle.net/