松本城(長野県松本市)~なぜ天守は築かれ、傾いたのか⁉
名城の鑑賞術 第3回
最高レベルの建設技術によって築かれた“層塔型”の代表

天守の型式は層塔(そうとう)型と望楼(ぼうろう)型に二分されるが松本城は、最下層から最上層までの各層が一定の比率で縮小される層塔型の典型。また、複合型と単独型という分類では、乾小(いぬいしょう)天守・辰巳付櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)が付されていることから、複合型に属する。撮影/外川純
文禄元年(1592)、天守が築かれたときの松本城の主は、石川数正だった。数正は、徳川家康の側近の一人だったが、家康の元を離れて豊臣秀吉に仕えた。
そんな数正が秀吉によって松本城主の座を与えられたのは、関東の家康を監視するためとも考えられている。
数正が与えられた禄高は8万石といわれる。だが、松本城の五層大天守の規模は、数十万万石クラスにも及んだ。同じころ、東国において匹敵する天守は、会津若松城の七層天守だけであり、桁外れの巨大建築が誕生したのである。
天守の基礎となる天守台の石垣は、壮大かつ堅固な規模を誇った。その上に聳(そび)える天守本体もまた最高レベルの建設技術によって築かれた。
秀吉は、家康に対して精神的圧迫を加えるため、関東と境を接する信濃の地に大坂城を小型化したような天守を建設させた。また、秀吉は、石垣や巨大建築を築くことができる技術者集団を松本へ派遣し、天守を完成へと導いたとも想定できよう。
江戸時代後期になると、松本城の天守が水平を保てず、傾斜に悩まされ続けたのは、農民一揆を主導し、処刑された多田加助(ただかすけ)の怨霊によるという。
松本城では、何度か傾いた天守の修復が行われ、その時は真っ直ぐに修正されても、何年か経過すると、また傾くという繰り返しだった。
明治維新後、廃城処分となると、城内の建物は解体され、ついには明治5年(1872)、天守も解体が決定。松本城を管轄する大蔵省が競売にかけたところ、235円で落札された。傾斜して崩壊しかねない、前時代の遺物が処分されるのは、当然の流れだったのかもしれない。
だが、地元の有志は、城下町松本のシンボルである天守が失われることを惜しみ、募金活動を繰り広げ、天守の買い戻しに成功する。明治6年から9年にかけ、天守は博覧会の会場として利用され、入場料や収益は、天守の維持費にあてられた。また、城跡は、都市の中心に位置する近代公園として再生されている。
明治34年には、松本天守閣保存会が結成され、明治36年から大正2年(1912)にかけて修復工事が実施され、屋根や壁が修復されるとともに、傾斜が修正された。
だが、昭和19年(1944)から23年にかけては、震度5前後の地震に何度も見舞われたこともあり、またも天守は傾いた。のみならず、戦中から戦後の混乱のなか、建物のメインテナンスを放置せざるをえない苦境が続いた。
昭和25年、国が主導する国宝の修復事業として、全面的解体修理が開始され、5年後に完了した。解体修理では、傾斜の原因が究明された結果、石垣の基礎を固めるため地中に埋められた木材の腐食と判明。そこで、木材を撤去してコンクリートに変更したところ、石垣の強度が確保され、傾斜の原因は除去さている。松本城天守は、300年近い歳月を経て、加助の怨霊の呪縛から逃れることができたともいえよう。
南アルプスを背景とした天守の姿は美しい。その造形美に感動するともに、「なぜ、このような巨大天守が出現したのか」という疑問を抱く。そして、自分なりの解答を導きだすことも城巡りの楽しみ方のひとつだと思う。