九度山に蟄居させられた真田昌幸の「懐」事情
歴史研究最前線!#043 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑨
家康や北政所にすがりついて復権を画策するも…

真田昌幸・信繁親子が蟄居を命じられた九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の一帯。
九度山に蟄居(ちっきょ)した真田昌幸・信繁父子は、実際にどのようなことを考えていたのであろうか。本当に「打倒家康」を悲願としていたのだろうか。
慶長8年(1603)3月15日、昌幸は信綱寺(しんこうじ/長野県上田市)に宛てて書状を送った(「信綱寺文書」)。その内容とは、本多正信を介して徳川家康に赦免(しゃめん)を願うという趣旨のものだ。昌幸は「打倒家康」を悲願としていたように思われていたので、驚くばかりである。
どうやら昌幸は「打倒家康」を考えておらず、許してもらおうとしたようだ。慣れない土地での生活は厳しく、昌幸は一刻も早く故郷へと戻りたかったのだろう。この書状からは、昌幸の赦免を乞う哀れな姿が思い浮かぶだけで、「打倒家康」を悲願としていたという闘志を感じられない。
また、昌幸は金にも困っていたらしく、この書状の追伸部分には信綱寺から2匁(もんめ)の送金があったことが書かれている。昌幸は、大変感謝しているのだ。
『梵舜日記』によると、同年1月9日、昌幸は人を介して願主となり、京都の豊国神社(京都市東山区)に銀子(ぎんす)7枚を奉納した。昌幸の依頼を受けたのは、関ヶ原牢人と懇意にしていたといわれている秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)であった。
昌幸は復権を画策して、家康や北政所にすがりついたのだった。ところが、昌幸の努力は実ることなく、九度山を脱出することは叶わなかった。同時に、昌幸が苦しんだのは、厳しい経済的な事情である。
一大名から転落した昌幸の経済的基盤は、どうなっていたのだろうか。昌幸は国許の信之から支援を受けていた。信之の妻から鮭を送られることもあったらしい。また、『先公実録』などによると、紀州藩や蓮華定院(れんげじょういん/和歌山県高野町)などからも支援があり、紀州藩主・浅野長晟(ながあきら)から毎年50石を支給されていた。
先述した信綱寺からの銀子2匁は、臨時収入だったのだろう。年次不詳1月5日付の昌幸の書状(宛名欠)には、昌親(まさちか/昌幸の三男)から臨時の扶助金40両のうち20両が送金されたと記されている(「真田神社文書」)。
とりあえず半分の20両が送金されたが、まだ20両も不足していた。現在の貨幣価値で、20両は約200万円である(一両は約10万円)。かなりの高額だった。