九度山に蟄居中の真田昌幸・信繁はどんな生活を送っていたのか?
歴史研究最前線!#042 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑧
「真田紐」を売って生活していた!?

真田庵から徒歩2~3分ほどの場所にある真田の抜け穴。抜け道が大坂城に続いており、かつて真田幸村がこの穴を使って戦場へ向かったという伝説が残っている。
前回取り上げたような、九度山に引き籠った昌幸・信繁父子が天下の情勢に思いを巡らせ、「打倒家康」を悲願として日々を過ごしていたというエピソードは、十分な史料的根拠がないまま、一人歩きしたのではないだろうか。
昌幸・信繁が決して「打倒家康」を諦めることがなかったというのは、二次史料にしか見えない。たとえば、『常山記談』は後世に成立した問題の多い逸話集であり、そのまま信じるわけにはいかないだろう。
二人が住んでいたのは、真田家と師壇関係にあった高野山蓮華定院(和歌山県高野町)の管理下にあった善名称院(ぜんみょうしょういん・和歌山県九度山町)である。二人の屋敷は、別々に用意されたという。おそらく寺院の建物を改装して、二人に提供されたと考えられる。この善名称院こそが、有名な真田庵のことなのである(以下、真田庵で統一)。
小山田茂誠(おやまだしげまさ)に宛てた11月11日付の昌幸の書状(慶長15年[1610]頃)によると、昌幸の屋敷は善名称院から借りていたことが判明する(「小山田文書」)。昌幸が住んだ場所は道場海東と呼ばれ、信繁が居住した場所は堂海東といった(『先公実録』)。「海東」とは「垣内」のことで、住居の垣の内または樹木などで囲まれた住宅を意味する。
二人は、どのような生活を送っていたのだろうか。
『名将言行録』によると、昌幸は大小の刀の柄に木綿の打糸を巻いて生活の糧にしていた。これを見た人は、粗末さをあざ笑ったが、昌幸は「たとえ錦の服を着ていても、心が頑愚(がんぐ・愚かで強情なこと)ならば役に立たない」と述べ、「これを見よ」と大小の刀を抜くと、それは名刀として名高い「相州正宗」であったという。
以後、人々は昌幸に敬意を表し、その木綿の打糸を「真田打」と称したという。「真田打」とは「真田紐」のことで、現在、「真田紐」は和歌山県のお土産として知られるようになった。
『安斎随筆』によると、「真田紐」は昌幸・信繁父子が脇差の柄を巻くために開発し、その製造・販売で生活をしていたといわれている。しかし、いずれにしても拠っている史料は、信が置けないものが多い。
また、『紀伊国続風土記』や『先公実録』によると、紀ノ川沿いに真田淵という場所があり、昌幸・信繁父子が水芸(魚捕りや水遊びなど)に興じていたという。楽しい生活をしていたようだ。
古曾部(こそべ)の東、丹生川(にうがわ)の東崖の岩間には、「真田の抜け穴」があったといわれているが、これは各所に伝わる「真田の抜け穴」の一つとして知られている。