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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑤

歴史研究最前線!#039

徳川秀忠の“大失態”を演出した昌幸の老練な戦術

上田城跡(長野県上田市二の丸)に残る直径約3メートルの「真田石」。真田昌幸は上田城築城の際に、太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」と名付けた。のちに上田領を引き継いだ嫡男の信之が、松代へ移封となった際に家宝としてこの大石を運ぼうとしたが、微動だにしなかったという伝承が残る。

 前回の続きである。

 

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、真田昌幸・信繁父子は関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)に向かう徳川秀忠を上田城(長野県上田市)で食い止めた。結果、足止めを喰らった秀忠は、関ヶ原に遅参するという大失態を犯している。本来ならば、昌幸・信繁は処刑されても仕方がなかったが、運よく免れた。そこにはどういう事情があったのか。

 

 昌幸・信繁父子は上田城に籠もり、西上する秀忠軍に備えた。同年8月24日、宇都宮(栃木県宇都宮市)に滞在中の徳川秀忠は中山道を通って西上し、美濃国で東海道を西進する家康と秀忠は合流する予定であった。昌幸は毛利輝元や石田三成らと書状を交わし、西軍勝利の暁には恩賞として信濃国の小諸・深志・川中島・諏訪を与えられる約束をしていた。

 

 同年9月2日、小諸に到着した秀忠軍は、上田城攻撃の準備を整えた。秀忠軍の率いる軍勢は約3万8000といわれ、真田軍より圧倒的に多かった。戦いは秀忠軍の有利が予想された。開戦当初、秀忠は昌幸に降参を促したが、何かと昌幸は言い訳し、すぐに勧告を受け入れなかった。

 

 当時、54歳の老練な武将である昌幸にとって、まだ22歳の秀忠を手玉に取るなど簡単だったに違いない。何せ昌幸は、これまで多くの戦いでの実績がある。そうとは気づかない秀忠は、ついに我慢ができなくなり、上田城攻撃を命令したのである。昌幸の思う壺であった。

 

 態勢を整えていた昌幸は巧みなゲリラ戦を展開して、9月5日から5日間続いた攻撃を耐え抜いた。秀忠は焦れば焦るほど、昌幸の術中にはまっていったに違いない。そのうち家康から連絡があり、美濃国へ急ぐよう命じられた。秀忠は上田城への攻撃を中断し、ただちに関ヶ原へ急行した。

 

 同年9月17日、秀忠は美濃国境の妻籠宿(つまごじゅく・長野県南木曽町)に到着したが、関ヶ原合戦は2日前の9月15日に終わっており、東軍が勝利を収めていた。秀忠は関ヶ原合戦に大幅に遅参するという大失態を演じ、家康から厳しい叱責を受けた。秀忠は、昌幸を大いに恨んだであろう。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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