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史料に残る真田信繁(幸村)の人物像とは?

歴史研究最前線!#035 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁①

気さくな性格で兄・信之にも認められた優秀な男

真田信繁の祖父・幸隆が治めていた長野県上田市にある「真田氏発祥の郷」の石碑

 大坂の陣といえば、真田信繁(幸村)の活躍があまりに有名である。信繁は、いかなる人物だったのだろうか。

 

 信繁といえば、やはり軍事に長けた優れた人物として描かれることが多い。多くの人は英雄としての信繁を思い浮かべるはずである。では、史料には信繁の人物像について、どのように書かれているのだろうか。

 

 『幸村君伝記』によると、信繁の人物像は次のように書かれている。これは、信繁の兄・信之(信幸)が言い残したものである。

 

 ①生まれながらの行儀や振る舞いは、普通の人と異なるところが多かった(すばらしい点が多かったということ)。

 ②物事には柔和・忍辱であり、言葉は少なくして腹を立てることがなかった。

 ③信繁は国郡を領する誠の侍だった。

 

 『幸村君伝記』の冒頭部分には、「信繁が天下に名を挙げたのは当然のことである」と書かれている。そして、信之は自身の容姿について「付け髭をして目を鋭くし、臂(ひじ)を張った道具持というほど信繁と違っていた」と述べている。

 

 簡単に言えば、かっこはつけているが中身が伴わないことを意味し、謙遜しているのである。信之から見れば、弟の信繁こそが真田家を継ぐべき優秀な男だったと言いたげである。

 

 信之(あるいは真田家)にとって、信繁は高く評価すべき存在であった。たとえ兄弟で敵と味方に分かれたとはいえ、決して悪しざまに罵ることは書けなかったはずである。その理由は、真田家の名誉にもかかわったからだ。

 

 そうなると、信之の話はやや大袈裟であると推測されるが、いずれにしても信繁は優秀な人物と考えられたふしがある。

 

 また、信繁は性格に気難しさがなく、常に人と会話を交わすと笑いが絶えず、すぐに打ち解けたという(『翁草』)。信繁は非常に気さくな性格であり、威張り散らすような人間ではなかったようだ。

 

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過去記事

渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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