大坂の陣終結後に建立された真田信繁・大助父子の墓所
歴史研究最前線!#073 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊴
各地に建立された信繁・大助父子の供養塔

江戸幕府開府後に真田家当主となった真田信之が建立した「長國寺」。写真は同寺内にある開山堂。もとは3代真田幸道公のために、享保12(1727)年に建てられた御霊屋(おたまや)。
大坂の陣終結後、戦死あるいは自害した信繁・大助父子の墓や供養塔は、各地に建立された。それは真田氏の本家だけでなく、信繁の息女が嫁いだ家の付近や信繁を討ち取った西尾家の菩提寺にもあった。
その中でもっとも由緒正しいといえば、長野県上田市真田長に所在する長谷寺(ちょうこくじ)であろう。正式な名称は、真田山種月院「長谷寺」という。
天文16年(1547)、長谷寺は真田幸綱(ゆきつな)が上野国安中(群馬県安中市)の長源寺から伝為晃運(でんいこううん)を招き、開山として建立されたと伝わる。
同寺には幸綱以降の真田家歴代の人々の墓があり、そこに信繁・大助の墓所も建立された。これが、一番真っ当といえるかもしれない。
のちに真田家を継いだ信之が松代(長野市)に転封となった際、同地に「長國寺」を建立した。そして、もともとの長谷寺は「長國寺」の末寺になった。
宮城県白石市にも、信繁の墓所がある。それは、信繁の五女・阿菖蒲が片倉定広(田村氏の後裔/こうえい)の妻となったことと関係していた。
定広の父・宗顕(むねあき)は、天正18年(1590)の小田原合戦に出陣しなかった。それゆえ豊臣秀吉の激しい怒りに遭い、すべての領地を没収された。
その後、片倉重長は、縁あって定広を白石に迎えた。その後、定広は阿梅(おうめ/信繁の娘で重長の妻)の妹・阿菖蒲を妻としたのである。
以上の関係から、信繁の墓は田村家の墓所内に築かれたという。墓の中には信繁の遺髪が埋葬されていると伝わるが、墓そのものは無銘(むめい)である。
京都市右京区の龍安寺には、塔頭の大珠院がある。その中の鏡容池(きょうようち)のほとりには、信繁夫妻の墓(五輪塔)がある。それは、信繁の七女・おかねの夫・石川貞清が建立したといわれている。
大珠院は、石川氏の菩提所であった。貞清は信繁の正妻・竹林院(大谷吉継娘)に対し、支援の手を差し伸べたといわれている。ただ、大変惜しまれることに、大珠院は今のところ公開されていない。