真田信繁の首実験にまつわる謎
歴史研究最前線!#070 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊱
信繁の力を恐れるあまりその最期を疑っていた家康

信繁が戦死したといわれる安居神社(大阪市天王寺区)の参道。神社の裏手には、「真田の抜け穴」があったと伝えられている。
結局、家康の怒りは収まらず、信尹(のぶただ)には恩賞が与えられなかった。理由は、首が信繁のものか判別できなかったからである。
ところが、これには別のエピソードが伝わっている。
『武辺咄聞書』によると、西尾久作が信繁の首を獲ったとき、それが信繁のものと気付かなかったというのだ。
合戦後、付近を通った真田信尹(信繁の叔父)が首を見て、信繁のものと気付いたという。これでは、前回と話が違っている。
信尹が信繁の首であると気付いた理由は、真田家に代々伝来する鹿の角の兜が首についていたからであった。
また、その首の口を開けると、前歯が2本欠けていた。信繁は前歯が欠けていたといわれているので、ようやく確信を得たということになろう。
もっとも有名なのは、次の逸話であろう。
久作が首を獲った後の首実検で、家康は労いの言葉をかけ、信繁の首を獲ったときの経緯を質問した。
久作は信繁が激しく抵抗したので、ようやく信繁の首を討ち取ったと答えた。自分も怪我をしたと申し添えたので、苦労したことを強調したようである。
家康は、早朝から信繁が戦っていたことを知っていたので、急に不機嫌になったという。疲れた信繁がそこまで動けないと思ったからだ。ただ家康は、「信繁が簡単に首を獲られるはずがない」と考え、久作に強い不信感を抱いたのである。
家康と久作との面会については、さらに別の逸話がある。
『落穂集』などによると、家康は信繁の首を見ると、前歯が欠けているか尋ねたという。首の前歯は欠けていると、久作は答えた。次に家康は、戦いの様子を質問したが、平伏した久作は黙ったままであった。
とにかく家康は「良い首を獲った」と、久作に労いの言葉をかけた。その後、家康は「久作は信繁と戦わなかったのだろう」と側近の者に述べたという。久作は信繁が力尽きたとき、偶然にその場を通りかかり討ち取ったと思ったようだ。
家康は、信繁ほどの男が久作などに討ち取られるはずはない、と非常に疑っていたようである。
信繁が久作に討たれたのはたしかである。ただ、叔父・信尹ですら信繁の顔が判断できなかったことや、久作が討ち取ったことを疑うのは、信繁に生きていて欲しいと願ったからであろうか。