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一対一の剣術試合はほとんどしない!? 「勝敗を決めない」現代とは“まったく違う”江戸時代の剣術とは

目からウロコの剣豪・剣術伝説

 

【図1】『千代田之御表 武術上覧』(揚洲周延著、明治30年)/国立国会図書館蔵

◼️江戸時代の剣術と現代剣道の違い

 

 【図1】は、江戸城で将軍の臨席のもとで行われた剣術の試合、いわゆる「御前試合」の様子が描かれている。

 

 江戸時代、江戸城内の出来事を絵や図に描き、公開するのは固く禁止されていた。

 

 そのため、【図1】が描かれたのは明治になってからだが、初めて江戸城内の様子が公開されたと言ってよかろう。当時、江戸城の生活を体験した人々の多くがまだ存命だった。つまり、【図1】はほぼリアルな光景である。

 

 だが、【図1】に違和感を覚える読者は少なくあるまい。

 

「え、御前試合は将軍の前で、一対一で試合をするのではないの? てんでに、審判もなしに勝手に試合をしているじゃないか」

 

 という疑問である。

 

 剣道経験者なら、こう断言するに違いない。

 

「これは試合ではない! 地稽古である!」

 

 地稽古は剣道の練習法のひとつで、決まった形の稽古から離れ、おたがいに自由に打ち合うというもの。それぞれが攻防の技を駆使する点では、試合形式の練習といえよう。一定の時間がたつと相手を交代する。

 

 柔道の乱取りに相当する練習形式であろう。

 

 【図1】は「武術上覧」と題され、御前試合と称されているが、実態は将軍の前でいわゆる地稽古をしているのだ。

 

 そもそも、「試合」の認識が現代とは異なっていたのである。

 

 以下に、江戸時代の剣術の試合(仕合と表記することもある)がどんなものだったかを見ていこう。

 

 現代人が「剣術の試合」と聞いてすぐに思い浮かべるのは、現代の剣道の試合光景であろう。

 

 つまり、床張りの試合場で、防具を身に着けた選手が竹刀で打ち合い、それを審判が判定して、第三者の観点から勝敗を決める――というもの。

 

 このため、江戸時代の剣術の試合にも無意識のうちに、現代の剣道の試合が投影されてしまっているのだ。

 

 江戸時代の道場では、審判が判定するような、一対一の試合はなかった(皆無だったとまでは言わないが)。

 

 当時の試合とは、いわゆる地稽古だったのだ。おたがいが攻防の技を繰り出しているという意味では試合だが、審判はいない。つまり、勝敗を判定する第三者はいなかったのだ。

 

 これで、『諸国廻歴日録』の記述に合点がいく。

 

『諸国廻歴日録』は佐賀藩鍋島家の家臣・牟田文之助(むたぶんのすけ)が嘉永6年(18539月から安政2年(18559月まで、およそ2年間にわたって全国武者修行をした旅の克明な記録である。

 

 同書を読むと、各地の道場で他流試合をした牟田文之助は、

 

 自分の方が七割がた勝っていた

 自分がほぼ九割、勝っていた

 

 などと記しているのだ。

 

 筆者は当初、同書を読みながら不思議でならなかった。

 

 なぜ、「七勝三敗で自分の勝ち」、「九勝一敗で自分の勝ち」と、はっきり書かないのか?

 

 だが、当時の試合が地稽古だったとわかると、文之助の記述もすんなりと理解できる。つまり、審判が判定したわけではなく、あくまで自己評価であり、自己申告だったのだ。

 

 地稽古で文之助は自分が七割がた勝っていたと思っていたが、もしかしたら先方が逆に七割がた勝っていたと思っていたかもしれないのだ。なにせ、審判が判定したわけではないのだから。

 

 くどいようだが、意味をはっきりさせよう。

 

 江戸時代の剣術道場の試合(仕合)の実態は、いわゆる地稽古だった。一対一の試合を審判が判定し、どちらかの勝ちを宣言するような形ではなかった。

 

 他流試合とは、自流とは違う流派の道場に行き、そこで地稽古に参加するというものだった。

 

 大石進(おおいしすすむ)の記録も、筆者はかつて疑問だった。

 

 柳川(福岡県柳川市)藩の剣術師範だった大石進は長身で、その腕の長さと生来の左利きを生かして、左手による片手突きをくふうした。しかも、用いる竹刀は五尺三寸(約160㎝)という長さだった。

 

 天保年間、江戸に出た大石はその長竹刀による片手突きで剣術界を震撼させた。北辰一刀流の千葉周作や直心影流の男谷精一郎とも他流試合をおこない、大石が勝ったとも、勝負なしに終わったとも、諸説ある。

 

 この諸説あること自体が、筆者は不思議でならなかったのだ。しかし、審判のいない地稽古形式だったとわかり、納得がいった。

 

 大石と千葉、大石と男谷の地稽古は多くの人が観戦していたが、見る人により、

 

「大石の勝ちだな」

「互角だな」

 

 など、評価はまちまちだったのだ。

 審判による判定はなかったのだから。

 

◼️決着をつけないのは事なかれ主義の延長?

【図2】『薄俤幻日記』(為永春水二世著、安政7年)/国立国会図書館蔵

【図2】は、牟田文之助の武者修行とほぼ同時期に刊行された戯作の挿絵である。当時の剣術道場の光景と見てよい。

 

 ふたりの試合形式の稽古を、座敷から道場主が観戦している。だが、見ているだけで、審判はしていない。

 

 このふたりは、おたがい激しく打ち合いながら、

 

「今のメンは決まったな。俺が勝っているぞ」

「よし、コテが決まったぞ。俺が優勢だな」

 

 と、内心でほくそえんでいたかもしれない。

 

 こうした、審判のいない地稽古を試合(仕合)と称していたのは、勝ち負けを明確にするのを避けるという、江戸時代の武士階級の、極力競争や対立を避けると言う、事なかれ主義の延長と言えないこともあるまい。

 

 なお、牟田文之助や武者修行の旅についてくわしく知りたい読者は、拙著『剣術修行の廻国旅日記』(朝日文庫)をお読みください。

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過去記事

永井 義男ながい よしお

1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、『図説吉原事典』『江戸の性語辞典』『剣術修行の廻国旅日記 』(以上、朝日新聞出版)など多数。

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