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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉝

歴史研究最前線!#067

家康との最後の決戦

白石城(宮城県白石市)で実際に着用できる、真田信繁が着用した「赤備え」のレプリカ。城内には撮影スポットももうけられている。

 前回の続きである。

 

 慶長20年(1615)5月7日、信繁は家康との最後の決戦に臨んだ。事前に豊臣方で催された作戦会議において、信繁は積極的に作戦を提案した。

 

 作戦の内容は、①秀頼に出陣を要請すること、②東軍が天満・船場を攻めないと予測されるので、船場の明石掃部を瓜生野(うりゅうの)に移動させること、③明石が合図の狼煙(のろし)を上げたら、信繁が家康の本陣に突撃すること、④家康本陣の旗本が出陣したら、その手薄な部分を明石が攻撃すること、であった。

 

 しかし、秀頼が出陣することは、信繁を信用できないという理由で却下された。徳川方に真田の一族(兄の信之など)がいるので、裏切りが懸念されたのだろう。ほかの作戦は最善の策であったが、少数の豊臣方が勝利するのは非常に困難だった。

 

 信繁が率いた軍勢には、真田与左衛門、御宿越前守、江原右近、多田藤弥、大谷大学(大谷吉継の子)、名島民部、長岡与五郎、槇嶋玄蕃、藤掛土佐、本郷左近、早川主馬助、福富平蔵、渡邊内蔵助、伊木七郎右衛門らの名将が従った。

 

 同年5月7日の正午頃に戦いがはじまると、信繁の率いる約3000の「赤備え」の軍勢は、家康の本陣へ攻め込んだ。

 

 信繁は3度も家康の本陣を攻撃し、勇猛な武将も逃げるありさまだったという。最後まで家康に付いていたのは、金地院崇伝 (こんちいんすうでん)と本多政重のみだったといわれている(諸説あり)。

 

 ところで、『列祖成蹟』によると、信繁の子・大助は父とともに出陣し、家康と戦うつもりだったという。

 

 しかし、信繁は大助を大坂城に送り返し、秀頼のそばに仕えるよう命じた。大助は不本意ながらも、渋々ながら父の命に応じたという。

 

 以後、信繁は家康と戦い、五分五分の戦いを繰り広げた。

 

 『イエズス会日本年報』などによると、信繁らの軍勢は徳川方を激しく攻撃し、ついには敗走させたという。追い詰められた家康は切腹しようとしたが、やがて形成が逆転したので中止したといわれている。

 

(続く)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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