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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉘

歴史研究最前線!#062

各地に点在する“真田の抜け穴”伝説

信繁が戦死したといわれる安居神社(大阪市天王寺区)。裏手には「真田の抜け穴」があったと伝えられている。

 前回の続きである。

 

 信繁が戦死した安居神社(大阪市天王寺区逢坂之町)の裏手の小高い崖には、人が入れるくらいの穴の大きさがある「真田の抜け穴」があったという。ところが、今は石積で固められ、その上に稲荷が祀られたので確認ができない。

 

 「真田の抜け穴」と称されるものは、まだまだほかにある。

 

 三光神社(大阪市天王寺区玉造本町)は「中風厄除け」の神社として有名であるが、大坂冬の陣では付近に徳川方の前田利常(としつね)が陣を置いていた。

 

 付近の小さな丘は、信繁と前田勢が「真田丸」で戦った場所でもある。その丘は、利常が「加賀宰相」と称されたので「宰相山」と呼ばれている。

 

 三光神社の社殿が所在するやや高地の崖の斜面には、ちょうど人が入れるくらいの大きな穴が空いているという。その穴の坑道は西の方向に10メートルほど進み、そこから南の方向に曲がっている。

 

『大阪府誌』によると、この穴は信繁が大坂冬の陣で「真田丸」を築いた際、地下を通じる穴を掘大坂城との連絡に使ったといわれている。現在、残念ながらその穴には鉄格子の蓋がされており、中には入ることは不可能である。

 

 つまり、信繁は必要なときに、大坂城まで地下道を通って往来し、豊臣方の諸将と情報交換をしていたというのだろう。ただし、この地下道が使用されたことは、当時の確実な史料で裏付けることはできない。

 

 では、至るところに大坂城まで地下道を作ることによって、どのようなメリットがあったのだろうか。正直なところ、まったく思いつかない。小さな地下道では、少人数の移動ならばよかったであろうが、大人数が移動するには不便であろう。

 

 それだけではなく、ほかにも疑問に感じる理由がある。

 

 当時の土木技術のレベルで、地下道を作るには高度な技術と多大な時間を要したはずである。現代においても、高速道路や地下鉄のトンネル工事などには、高い技術が要求されるという。

 

 要するに、工事がいい加減なものであれば、地下道が崩れ落ちる危険性があったといえよう。短期間で、安心安全な抜け穴が作れたのか疑問だ。

 

 このような「真田の抜け穴」伝説が残ったのには、いったいどういう理由があったのだろうか。おそらく信繁のような優れた武将ならば、地下道を掘るという奇策を用いたと考えたのであろう。

 

 それゆえ、「真田の抜け穴」らしき穴を発見すると、信繁が掘ったものと後世の人が思っただけに違いない。

 

(続く)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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