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大坂城の弱点である南方に築かれた“真田丸”

歴史研究最前線!#060 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉖

信繁の意図を想像させる諸説が存在

真田丸の跡地とされる心眼寺(大阪市天王寺区)は、元々は秀吉の時代に創建された。一度取り壊された後、「真田丸」跡地に再度建立されている。

 

 大坂冬の陣の際に築かれた出丸には、なぜ「真田丸」という名称が付けられたのであろうか。

 

『大坂陣山口休庵咄』には、「信繁は何を考えたのか、玉造口の南の一段高いところに、三方から堀を廻らせ、柵を三重につけて櫓(やぐら)・井楼(せいろう)をあげ、塀の近くには武者走り(通路)を拵(こしら)えた」と、真田丸が築かれた状況を書いている。

 

 突如として「真田丸」は築城されたが、名付けられた経緯は触れていない。実際には適当な名称がなく、単に信繁が築いたので「真田丸」と称したのだろうか。

 

『武徳編年集成』によると、あえて信繁は後代に武名を残そうとして、自身の姓を冠した「真田丸」を築城したという。

 

『幸村君伝記』によると、大坂城の四方の守備の担当を決める際、城の西南方向の玉造口に程近い場所に小高い山があった。

 

 その四方に信繁は塀を築き、やがて井楼(せいろう)を挙げると城になり、これが最初から「真田丸」と呼ばれたという。しかし、信繁自身は、ただ「出丸」と命名していたようだ。

 

 以上のように諸説が乱立気味であるが、実際は信繁がこの出丸に入ったので、単に「真田丸」と称したのが実情ではなかったのだろうか。さほど難しく考える必要はないのかもしれない。

 

 また、一説によると、もともとは後藤又兵衛が「真田丸」に入城予定であったという興味深い説もある。『大坂御陣覚書』によると、最初から「出丸」には、後藤又兵衛が入城していたと書かれている。

 

 しかし、又兵衛は遊軍を命じられたので、代わりに信繁が「出丸」を受け取り、敵も味方も「出丸」のことを「真田丸」と呼んだという。

 

 真相は不明であるが、又兵衛と信繁は互いにライバルのように扱われることもあるので、そうした点も意識されたのだろうか。

 

 「真田丸」は謎が多いものの、急ごしらえとはいいつつ、意外にしっかりとした城郭だったと考えられる。

 

 

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過去記事

渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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