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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉒

歴史研究最前線!#056

真田を恐れていた家康が本当に“昌幸の死”を知らなかったのだろうか?

JR静岡駅前にあるにある徳川家康像。天下人らしい重厚な表情が目を引く。

 前回の続きである。

 

 実は、同じような話は、ほかにも残っている。

 

『仰応貴録』には、徳川家康は真田昌幸が大坂城に入城したのではなく子の信繁と知ると、安堵したと書いている。

 

『仰応貴録』の作者は、「真田の天下無双の武威(ぶい)は皆が恐れていたから、家康が真田のことを気にして、入城したのが昌幸でないことに安堵したのは仕方がない」と擁護している。

 

 その後、家康は昌幸の弟・信尹(のぶただ)を信繁のもとに遣わし、徳川方に寝返らせようとしたが失敗したという。やはり、家康は信繁を恐れていたと思われ、誠に興味深い記述である。

 

 このように、天下人である家康は、昌幸を九度山に蟄居(ちっきょ)させたにもかかわらず、常に「昌幸が挙兵するのではないか」と悩まされていたことになろう。ただ、子の信繁なら問題ないと考えたのは、おもしろいところである。

 

 とはいえ、以上の逸話には、疑問に思われる点がある。昌幸が慶長16年(1611)に没したことは、すでに家康にも報告されていたはずである。もしそうであるならば、家康は昌幸が大坂城に入城したと思わなかったと考えるのが自然である。むしろ、家康が昌幸の死を知らないというのは、大きな疑問である。

 

 ここまで触れたエピソードは、真田氏が戦巧者であることを前提とし、家康が昌幸を恐れたことになっている。そこには、家康を貶(おとし)めようとする意図がうかがえ、まったくの創作と考えられる。史実ではないだろう。

 

 つまり、失意のうちに病死した名将・真田昌幸を引き立て、家康を貶めるための創作なのだ。以上のとおり、信繁の大坂城入城にまつわる話は大変面白いのであるが、常識的に不審な点が多く、とても信を置くことができない。

 

 入城したのが昌幸でなく信繁であったことから、家康は油断した。その後、家康が信繁に苦しめられることになるが、その布石とはいえないであろうか。ただ、家康が信繁に苦しめられた話も、かなり大袈裟かつ荒唐無稽で受け入れ難い逸話が多いのである。

 

(続く)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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