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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑰

歴史研究最前線!#051

秀頼から三顧の礼で迎えられ大坂城に入城

現在の大阪城天守閣。豊臣秀吉が築いた「大坂城」の遺構はほぼ埋没しており、現在は徳川幕府により建造された櫓や門と、1931年(昭和6年)に復興された天守を目にすることができる。

 前回の続きである。

 

 信繁は、豊臣方から熱烈な歓迎を受けて大坂城に入城した。むろん、秀頼(ひでより)は信繁に大いに期待したことであろう。

 

 秀頼は信繁を「三顧の礼」で迎えたといわれている。「三顧の礼」とは、蜀(中国)の劉備が諸葛孔明の庵を三度訪れ、遂に軍師として迎えた故事に基づいている。転じて目上の人が、ある人に礼を尽くして仕事を頼むことや、ある人を特別に優遇または信任することを意味するようになった。

 

 ただし、徳川方では、信繁あるいは牢人衆の大坂城への入城を冷めた目線でとらえていたようだ。

 

 慶長19年(1614)10月頃、すでに大坂城には続々と牢人が各地から集まっており、戦争は間近に迫っていた(『駿府記』)。豊臣方では来るべき合戦に備えて、戦闘員の牢人の手配だけではなく、大坂城の総構も着々と整備を行い、金銀、米、武具などが城内に運び込まれた。

 

 金地院崇伝(こんちいんすうでん)は牢人たちを「日用(=日雇)」と呼んだうえで、彼らは忠誠心が薄く、まともな戦力ではないと見下していた(『本光国師日記』)。崇伝は無名の牢人に限らず、信繁ら名の知られた人々にも同じ感想を持ったかもしれない。

 

 同じく崇伝は、牢人たちを「むさと(「取るに足りない」の意)」と評価している(『本光国師日記』)。お世辞にも褒めた言葉ではない。彼らを烏合の衆と捉え、マイナス評価を与えていたのだ。崇伝は、豊臣方を侮っていたようである。

 

 豊臣方では恩顧の諸大名が味方になると予想したが実現せず、頼りになるのは牢人たちであった。彼らは当座の生活をしのぐ金にも事欠いていたため、豊臣家では彼らに十分な金銀を与えて迎え入れた。ただし、彼らが「豊臣家のため」と心から考えていたかは、大いに疑問である。生活が最優先だった。

 

 ところで、信繁は50万石を与えられるという約束で、軍勢を約6千率いて大坂に入城したという(『大坂御陣山口休庵咄』)。入城に際しては、幟・指物・具足・兜・母衣以下、上下ともに赤で仕立てられ、馬印は金の「うくゑ」であったと記されている。

 

 豊臣方と信繁の約束が事実なのか不明であるが、徳川方に勝てば、ほぼ日本国中の大名の所領が手に入るので不可能なことではない。ただ、信繁が率いた約6千という軍勢は、あまりに多すぎるように思え疑わしい。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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