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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑬

歴史研究最前線!#047

書状からも読み取れる窮乏した生活状況

上田駅(長野県上田市)前にある、真田信繁騎乗像。赤い時計台と旗には真田氏のシンボルとなる六文銭があしらわれている。

 前回の続きである。

 

 すでに触れたように、九度山(和歌山県九度山町)に蟄居(ちっきょ)していた昌幸・信繁父子は経済的な苦境に喘(あえ)いでおり、とても「打倒家康」を考える余裕がなかった。

 

 信繁は、妻子とともに屋敷に住んでいた。信繁の妻は大谷吉継の娘であり、2人が結婚したのはおおむね文禄年間頃と考えられている。ほかに妾(めかけ)が1人いた。そして、信繁と妻・妾との間には、2男6女の子供がおり、このうちの男2人と女3人が九度山で生まれた。

 

 ただ、信繁の窮状は、父・昌幸とさほど変わりがなかったようだ。

 

 年未詳9月20日付の信繁の書状(宛名欠)によると、信繁は九度山での苦しい生活を推察いただきたいと心情を吐露している(「長井彦介氏所蔵文書」)。追伸では信繁が九度山で連歌を嗜(たしな)んでいたことがわかり、機会があれば興行したいと記している。信繁が連歌を学んでいたことは、ほかの書状にも散見する。

 

 年次未詳12月晦日付の信繁の書状(真田家の重臣・木村綱茂宛)には、変わることなく過ごしているので安心するように述べる一方、冬の生活に不自由していると書いている(「宮沢常男氏所蔵文書」)。書状を送った目的は、歳暮として鮭を送られたことへの返礼であるが、窮乏(きゅうぼう)した生活を察して欲しいとも述べ、綱茂にお目にかかりたいと結ばれている。

 

 また、信繁は経済的に厳しかったこともあり、少しばかり金銭に細かかったようである。年次未詳12月29日付の信繁の書状(池田長門守宛)には、お金に関することが細かく書かれている(『先公実録』)。たとえば、1条目には信繁の借金40両1分のうち、小判10両をたしかに受け取ったとある。

 

 3条目には池田長門守の代官所の慶長15年(1610)の算用状を受け取って拝見し、残りの金子2分、銀子14匁(もんめ)が届いたと書かれている。信繁の窓口は、かつて昌幸とともに九度山に随行した、池田長門守が担当していた。

 

 6条目には、池田長門守から銀子20匁をいただいたことはうれしいが(個人的な寄附)、気遣い無用と書かれている。池田長門守が寄附をしたのは、信繁の厳しい経済的状況を知っていたからだろう。

 

 7条目は寒い季節で普請が困難であるが、家が完成したので移ったとある。同時に苦しい生活を推察してほしいと書かれている。書状の冒頭に信繁の屋敷が火事にあったとあり、そのため家を新築したのであった。これには費用がかかったはずであり、急な経費負担は信繁をますます窮状に追い込んだことであろう。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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