真田昌幸が死の間際に信繁へ委ねた「打倒徳川」の秘策とは?
歴史研究最前線!#045 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑪
昌幸が死の間際まで温め続けた秘策

昌幸の遺骨の一部が納骨された長谷寺(長野県上田市)の石門。真田氏の家紋として知られる六文銭が刻まれている。
関ヶ原の戦い後、一大名から転落した真田昌幸は、蟄居先の九度山でゆとりのない生活を送っていた。経済的に厳しい状況が続き、自身の病気も長引いており、とても「打倒家康」を考えたとは考えられない。
逆に、許しを希(こいねが)うような状況だった。ところが、死の間際になって、昌幸は信繁に家康に勝つための秘策を与えたといわれている。
『武将感状記』によると、昌幸は常日頃から豊臣方と徳川方に合戦があれば、豊臣方に与して家康を攻め滅ぼそうと考えていた。囲碁好きの昌幸は、囲碁を戦いの備えや人員配置に置き換え、合戦の準備に余念がなかった。ところが、その昌幸に死期が迫ったので、それも叶わず、子の信繁に作戦を授けたというのだ。
昌幸は死に臨んで、自身の秘策を実行できないことを悔しがっていた。信繁は「ぜひ教えて欲しい」と懇願するも、昌幸は「信繁にできるはずがない」と拒絶した。しかし、信繁のたび重なる懇請により、ついに昌幸も根負けした。
昌幸は3年も経たないうちに、徳川方と豊臣方は合戦になり、豊臣方は必ず自身を招くと予想した。昌幸は「約2万の兵を率いて青野ヶ原(岐阜県大垣市)に出陣し、関東の軍勢を防ぐべきだ」と信繁に説明し、その意図を質問した。
信繁はしばらく考えたが、昌幸の意図が理解できず、「豊臣方の2万の兵は牢人ばかりなので、大軍である徳川方の精鋭の武者を防ぐことは考えられない」と答えた。青野ヶ原は平坦な地で、守備には適していなかった。
昌幸は「自分のような名将が出陣すれば、家康は慌てて関東から奥州まで兵を募るので、その間に兵を引いて瀬田(滋賀県大津市)、宇治(京都府宇治市)で防御体制を築き、二条城(京都市中京区)を焼き払い、堅城の大坂城(大阪市中央区)に籠城する」と述べた。
さらに「夜討ち朝駆けで徳川方の軍勢を悩ませれば、徳川方に味方した武将も豊臣方に戻るに違いなく、最後は徳川方を100里(約400キロメートル)の外に押し返すことが可能ではないか」というのである。
一方で「仮に信繁が大坂城に籠もり、昌幸と同じ作戦を提案しても、豊臣方の重臣・大野治長(はるなが)と治房(はるふさ)の兄弟は兵法を知らないので拒否するだろう」と述べた。
加えて「2人(治長・治房兄弟)は軍勢を分散させ、無謀な戦いを挑んで自滅する」と予言し、信繁に「以後の情勢をよく見ておくように」と述べた。「その言葉は見事に的中し、昌幸の言葉に間違いはなかった」と『武将感状記』は結んでいる。