関ヶ原後に対面した真田昌幸・信繁(幸村)と信之の話の内容とは?
歴史研究最前線!#041 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑦
九度山に引き籠りながらも「打倒家康」の思いは消えず

昌幸・幸村が過ごした九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の善妙称院(現・真田庵)内にある真田昌幸の墓。
関ヶ原合戦で敗北した昌幸・信繁父子は、辛うじて死を免れ、慶長5年(1600)12月13日に九度山(和歌山県九度山町)へと向かった(『当代記』)。昌幸と信繁の2人が蟄居(ちっきょ)を命じられた高野山の麓にある九度山とは、どのような場所だったのか。九度山は大阪府と境を接する、現在の和歌山県伊都郡九度山町にあり、かつては高野山領であった。
九度山の慈尊院には真言宗の開祖・空海の母が住んでいたといわれ、空海は母に面会するため、月に9回も慈尊院を訪れたという。当時、高野山(和歌山県高野町)は女人禁制であり、母が空海に会うために高野山を訪ねることはできなかったのである。そのような逸話にちなんで、九度山と名付けられたと伝わる。
「真田家文書」によると、昌幸・信繁父子に随行して九度山へ下向したのは、池田長門守(いけだながとのかみ)、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田角左衛門、川野清右衛門、青木半左衛門、大瀬儀八郎、飯嶋市之丞、石井舎人、前嶋作左衛門、関口角左衛門、関口忠左衛門、三井仁左衛門、青柳春庵ら16名であった。
松代藩に伝わってきた『真田御武功記』によると、昌幸・信繁父子がいよいよ九度山へ向かう際、信之と面会をしたという。昌幸ははらはらと涙を流し、恐ろしい目つきをして「それにしても何と口惜しいことであろうか。家康こそ九度山へ追放してやろうと思ったのに」と心中を吐露したといわれている。
気持ちは、子の信繁も同じであったようだ。江戸時代中期の軍談書である『常山記談』によると、「紀州高野山の麓の九度山に引き籠る信繁は、常に兵法を談じて天下の時勢に思いをめぐらせていた」と記している。
昌幸・信繁ともに家康に対する悔しい気持ちを語っているのであるが、これが事実であるか否かは不明である。昌幸・信繁父子は一介の牢人として九度山で生涯を終えることなく、天下の情勢に思いをめぐらせ、「打倒家康」を悲願として日々を過ごしていた様子がうかがえる。