関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた真田昌幸・信繁・信之の苦悩【前編】
歴史研究最前線!#037 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁③
関ヶ原合戦で兄・信之、弟・信繁が敵味方に分かれた「犬伏の別れ」

関ケ原の戦いで、信繁が徳川軍を迎え撃った上田城跡(長野県上田市二の丸)。現在は、仙石忠政によって江戸時代初期の寛永年間に再度建てられた城が残る。
真田昌幸・信繁父子は、慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原合戦において、究極の決断を迫られた。
関ヶ原合戦が勃発したとき、真田家では昌幸・信繁が西軍に、そして信之が東軍に分かれて戦った。そのときの有名なエピソードが犬伏の別れである。それは、いったいどのようなものだったのであろうか。
慶長3年8月に秀吉が病没すると、政権の中枢に台頭したのが徳川家康である。家康は秀吉の遺命を次々と破り、諸大名と無断で婚姻関係を結ぶなどした。「反家康」の大名たちは、こうした家康の行動を非難した。家康は猛抗議を受け、いったんは詫びを入れ、事態は収束する。
ところが、翌年に前田利家が病没すると、家康は思い切った行動に出る。直後に黒田長政ら七将が石田三成の処分を求めて家康に訴訟すると(襲撃したとの説は誤り)、家康は三成を佐和山城(滋賀県彦根市)に逼塞(ひっそく)させた。
三成は事実上の失脚である。さらに家康は前田利長に謀反の疑いをかけると、謀反に与同した浅野長政も五奉行から排除した。そして、さらに上洛に応じない上杉景勝を討とうと画策したのである。事態は家康の思うように動いた。
むろん、「反家康」の大名も黙っていない。慶長5年7月、毛利輝元(てるもと)、三成ら「反家康」の面々は、「反家康」の決起を促す「内府ちかひの条々」という家康の弾劾状を各地の大名に送った。こうして関ヶ原合戦がはじまろうとした。ただ、この時点で徳川、豊臣のいずれに与するか悩む大名も少なからず存在し、昌幸も例外ではなかった。
そもそも昌幸は東軍の徳川秀忠の軍勢に合流する計画であったが、慶長5年7月に下野国犬伏(しもつけのくにいぬぶし・栃木県佐野市)で、三成からの出陣要請を受け取った。昌幸は東西両軍のいずれに与するか、大いに苦悩したのである。
昌幸は二人の子を呼び、徳川方と豊臣方のいずれにつくか相談した。その結果、長男・信之は徳川方に味方することになった。天正14年(1578)に信之は家康の養女・小松姫を妻としており、そうせざるを得なかったに違いない。
一方の昌幸は、次男・信繁とともに豊臣方に与することになった。信繁の妻は、豊臣方に与した大谷刑部(おおたにぎょうぶ・吉継)の娘であった。大谷刑部が三成に味方した関係上、信繁も豊臣方に味方するのが自然だったのだろう。