織田有楽はなぜ大坂城を去ったのか?【前編】
歴史研究最前線!#034
豊臣家に身を投じたのは自らの意志ではなかった!?

大阪市大坂城公園内にある大阪城。秀吉が築城した「大坂城」は現存しておらず、写真の天守閣は昭和5年(1930年)に再建されたもの。
大坂の陣で大野治長(おおのはるなが)とともに豊臣家を支えた重臣としては、織田有楽長益(おだうらくながます)を挙げることができる。長益は織田信長の弟で、天文16年(1547)に誕生した。通称は源五郎という。天正18年(1590)に剃髪して、有楽と号した。
有楽は茶人して知られ、有楽派の祖でもある。天正10年(1582)6月の本能寺の変には、宿所の二条御所が襲われたが、何とか生き延びることができた。
その後、甥・信雄とともに豊臣秀吉に抵抗するが、やがて和解して臣従し、のちに秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)になった。御伽衆とは、主人の身辺で文芸などをもって仕える役目である。
秀吉の没後、有楽は徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で活躍した。その功績により、大和山辺郡に3万石の知行地を与えられた。その後、有楽は淀殿の叔父だったこともあり、大坂城に入城。淀君・秀頼母子を支えたのである。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣がはじまる前後、有楽は治長とともに豊臣家を支え続けた。しかし、治長と同じく、牢人衆の提案する作戦をことごとく退け、豊臣家を滅亡に追い込んだ張本人の一人と考えられている。
大坂冬の陣終了後、有楽は自身の子を人質として徳川方に送り、和睦(わぼく)に力を尽してきた。豊臣方に貢献したのは間違いない。
その有楽は慶長20年(1615)に大坂夏の陣が始まろうとする頃、大坂城を去った。それには、いかなる理由があったのか。
『駿府記』によると、慶長20年2月26日に有楽が大坂城を去ろうとしたことを確認できる。
有楽は使者の村田吉蔵を駿府(すんぷ)に遣わし、大坂城を退き京都か堺あたりに引き籠りたいと申し出た。大坂城の堀などの埋め立て完了後から、約1カ月後のことである。理由は判然としない。
同年3月28日、有楽は後藤光次(ごとうみつつぐ)に宛てて、「私は上意(家康あるいは秀忠の意向)に任せて未だ大坂城におりましたが、ここにおりましても私の献策は取り入れられません。早々に大坂城から退くことを執り成しいただきますよう、本多正純様に申し入れました」という内容の書状を送っている(『譜牒余録』)。
つまり、有楽は自らの意思ではなく、家康らの意向により、豊臣家に身を投じていたのだ。
(続く)