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大野治長・治房兄弟は豊臣家のガンだったのか?【前編】

歴史研究最前線!#032

徳川家康暗殺を企て下野国へ追放される

大野治長が普請に携わった伏見城。当時の城は慶長伏見地震によって倒壊し、その後何度かの廃城を経て、現在は昭和39年(1964)に建設された模擬天守が残る。

 大坂の陣で、豊臣方の重臣として秀頼(ひでより)を支えたのが大野治長(おおのはるなが)・治房(はるふさ)兄弟であった。2人は、いかなる人物だったのだろうか。

 

 永禄12年(1569)、大野治長は定長(さだなが)の子として誕生した。通称を修理亮(しゅりのすけ)という。治長の母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)は、豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの)の乳母を務めた人物でもある。ただし、父・定長の経歴に関しては、あまりわかっていない。

 

 治長には、治房という弟が存在した。治房については生年が不詳で、治長以上に経歴がわかっていない。

 

 治長には治房のほかに、治胤(はるたね)、治純(はるずみ)という弟がいたが、やはり生年や経歴は不明な点が多い。なお、治長には治徳(はるのり)という男子がいた。

 

 治長は母が豊臣家に近しい関係にあったことから、秀吉の馬廻(うままわり)として仕官したといわれている。

 

 天正17年(1589)、治長は和泉国(いずみのくに)と丹後国(たんごのくに)に1万石を領し、従五位下(じゅごいのげ)・侍従に叙任された。治房も豊臣秀頼に仕えていたのは確実であり、1300石の知行を与えられていたという。

 

 秀吉の死後、治長は秀頼に仕えて、警護二番衆の隊長となる。しかし、慶長4年(1599)9月、治長は大坂城内で浅野長政(あさのながまさ)、土方雄久(ひじかたかつひさ)らと徳川家康暗殺を企てたが、それは未遂に終わった。

 

 容疑をかけられた治長は捕縛され、下野国結城(しもつけのくにゆうき・栃木県結城市)に追放された。この事件により、治長は失脚したかのように思えた。

 

 翌年、石田三成らが挙兵すると、治長は家康から許され、関ヶ原合戦では東軍に与して大いに活躍した。

 

 合戦後、再び治長は豊臣家に仕官し、秀頼を支えた。こうして治長は、秀頼の家臣として重用されたのである。

 

 慶長19年(1614)に方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件が勃発すると、豊臣方で家康との仲介役を担当した片桐且元(かたぎりかつもと)は大坂城を退いた。

 

 以降、治長は織田有楽長益(おだうらくさいながます)とともに豊臣家を支え続け、徳川氏という難敵を相手にして、困難な政局運営を担うことになる。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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