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明石掃部とはいかなる人物だったのか?【前編】

歴史研究最前線!#030

キリシタン武将・宇喜多秀家に仕える

 

全登が参戦した、大坂夏の陣道明寺合戦の史実を伝えるために建立された慰霊碑(大阪府藤井寺市)

 大坂の陣において、多くのキリシタンが大坂城に入城した。キリシタン武将として有名な、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の重臣・明石掃部(あかしかもん)もその一人である。明石掃部は、「全登」などと記される人物であるが、その経歴は不明な点が多い。

 

 明石氏は播磨国(はりまのくに)明石郡に本拠を置いた領主であり、赤松氏に仕えて明石郡代などを務めていた。その庶流がのちに備前国(びぜんのくに)へ移り、浦上氏の配下になったという。その先祖に関しては諸説あるが、詳細は不明である。

 

 備前に移った明石氏は、やがて浦上宗景(うらがみむねかげ)に仕えた。しかし、天正3年(1585)に宗景が天神山(てんじんやま)城(岡山県和気町)を放逐されると、代わりに台頭した宇喜多直家(なおいえ)に仕官するようになった。

 

 天正10年(1582)に直家が病没後も、掃部は引き続き子の秀家に仕えた(直家の没年は天正9年説もあり)。『宇喜多氏分限帳』によると、掃部は戸川達安(とがわみちやす)などの重臣と並び、かなり大身の家臣であったことがわかる。

 

 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』によると、明石掃部が慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦以前に、キリスト教に改宗していたことがわかる。明石掃部と同じく、秀家の従兄弟である浮田左京亮(うきたさきょうのすけ)もキリシタンであった。

 

 彼らの配下の者にもキリシタンが多かったと考えられ、フロイスの『日本史』によると、備前国内には相当な数のキリシタンが存在したと記されている。それゆえ備前には法華宗の勢力が強かったので、宗教的な対立があったといわれている。

 

 慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が没すると、徳川家康が台頭することになり、秀家の立場は揺らぎはじめる。とりわけ、家康と石田三成が激しく対立したことは、三成と近しい秀家を大いに悩ませることになる。

 

 慶長4年末頃に宇喜多騒動が勃発すると、宇喜多氏家臣は次々と家中を去った。騒動の要因については諸説(過酷な検地など)あげられているが、そのような原因が複雑に絡み合っていたのであろう。

 

 最終的に、掃部は宇喜多家に止まった。そして、関ヶ原合戦が勃発すると、秀家とともにに西軍に属して戦った。掃部は東軍に与した戸川達安を翻意させるべく、調略をしたことが知られている(「水原岩太郎氏所蔵文書」)。

 

 しかし、結果は周知のとおり西軍は敗北し、主君の秀家は没落した。明石掃部は3千人のキリシタンとともに、黒田長政(ながまさ)の領する筑前国に移ったという。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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