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敗者の大坂の陣 薄田兼相はなぜ「橙武者」と呼ばれたのか?(後編)

歴史研究最前線!#029

戦い前日まで遊女屋通い、戦地への進軍の遅れ…失態の連続

 

京都府宮津市にある「岩見重太郎試し切りの石」。薄田兼相と同一人物とされる剣豪・岩見重太郎が、父の仇である三人を追って宮津を訪れ、仇をかくまっていた京極家の許しを得て仇討ちをする時に、刀の切れ味を試したとされる。

 前回の続きである。慶長19年(1614)に大坂冬の陣が始まると、牢人衆を率いた兼相(かねすけ)は博労ヶ淵(ばくろうがふち)砦の守備を任されている。博労ヶ淵砦は、大坂城の西方に位置する重要な地点であった。兼相には大きな期待が寄せられていたのだ。

 

 ところが、その期待はあっさりと裏切られてしまう。同年11月29日、博労ヶ淵砦は阿波の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)に攻撃されると、あっという間に落とされてしまった。あまりにあっけない敗戦であったという。

 

 その理由は、衝撃的なものだった。戦いの前日から兼相が遊女屋(ゆうじょや)に通っていたため、負けたというのである。大将がこの調子だったのだから、十分な守備ができなかったということになろう。

 

 それゆえ兼相は、「橙武者(だいだいむしゃ)」と揶揄されることになった。「橙武者」の意味は、「橙が酸味が強くて、正月飾りにしか使えず見かけ倒し」という意味から、転じて立派な体格をして武勇の優れた兼相も「見かけ倒し」だったということになろう。兼相の遊女屋通いは、大失態といわざるを得ない。

 

 ただし、このうち兼相が遊女屋へ行っていたという事実は、たしかな史料では裏付けられない。また、「橙武者」というのは『大坂陣山口休庵咄』に書かれているが、豊臣方の不甲斐なさを表した表現にすぎないだろう。

 

 兼相の失態ぶりは、翌年の大坂の夏の陣でも続くことになる。慶長20年5月6日の道明寺の戦いにおいて、兼相は先に出陣した後藤又兵衛(またべえ)に続いて、戦地に到着する予定であった。

 

 しかし、当日は濃い霧により進軍が困難であった。兼相が到着したとき、すでに又兵衛は伊達政宗らの軍勢と戦い、戦死したあとであった。ただ、これは濃霧という不測の事態と考えるべきであろう。

 

 その後、兼相は水野勝成(かつなり)の軍勢と戦い、勝成の家臣・河村重長に討ち取られたという。ところが、あろうことか本多・伊達両氏の家譜によると、兼相の首を取ったのは、それぞれの自分の家臣であると記載されている。

 

 大坂夏の陣後、兼相は薩摩国へ逃亡したとの説もあるが、それは単なる逸話に過ぎないであろう。兼相の謎は尽きない。

 

(完)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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