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敗者の大坂の陣 毛利勝永(もうり かつなが)はなぜ土佐藩を去ったのか?(後編)

歴史研究最前線!#026

再び大名への復帰を目論むゆえの豊臣家への忠誠心だった!?

 

清凉寺(京都市)にある、大坂の陣で亡くなった武将たちの供養碑と豊臣秀頼の首塚。

 前回の続きである。勝永が豊臣方に身を投じた背景には、有名な逸話がある。『常山紀談(じょうざんきだん)』などによると、勝永は自身が豊臣家の恩顧を受けたので、秀頼のために一命を捧げたいと妻子に語ったという。かつて西軍に与して敗北した牢人が豊臣家に身を投じる理由は、秀頼あるいは豊臣家のためになっていることが多い。

 

 豊臣家に与(くみ)することにより、勝永は妻子に累(るい)が及ぶことを恐れた。しかし、妻は家の名誉でもあり、いざというときは命を断つとの覚悟を示したのである。武士の妻であれば、これくらいの覚悟は当たり前だったのかもしれない。こうして勝永は何の憂いもなく、子の勝家と大坂城に入城したといわれている。

 

 この話は近世の儒教的な影響が大きく、とうてい信を置くことができない。「忠臣は二君に見(まみ)えず」というが、そうした思想に基づき書かれた逸話であると考えられる。近世にあって、忠誠心は非常に重要な意味を持った。

 

 ところが、未だ戦国時代の気風が残る慶長末年にあって、隅々までこうした考えが浸透したとは思えない。むしろ、打算的な武士のほうが多かったはずである。戦国時代には、平気で主君を裏切ることも決して珍しくなかった。

 

 では、実際のところは、どうだったのであろうか。

 

 結論からいえば、先述のとおり勝永が山内家にいても、もはや再起する芽はないというのが実情だった。そうなると「座して死を待つ」より、思い切って旧主・秀頼のもとに馳せ参じ、再度大名に復帰する可能性を模索する以外に道はない。

 

 案外、勝永にはそのような打算があったと考えられる。単に忠誠心によって、出陣を決意したというのは疑問視されよう。勝永は自分自身のみならず、わが子の将来をも含めて決断したと考えられる。

 

 ちなみに家康は勝永の妻の話を聞いて感銘し、絶対に妻子を殺してはならぬと厳命し、のちに保護したという。しかし、もう1人の子・太郎兵衛は、大坂の陣後に殺害されたというので、こちらの話も怪しいところである。

 

 戦いは、豊臣方の敗北。勝永もまた本懐を成し遂げることはできず、慶長20年(1600)5月の大坂夏の陣で敗れ、自ら腹を切ってその生涯を閉じたのである。

(完)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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