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細川興秋はなぜ豊臣方に身を投じたのか?【後編】

歴史研究最前線!#022

後継者への道を断たれた興秋

細川興秋が城代として任命された小倉城(福岡県北九州市)。

 前回からの続きである。細川忠隆の廃嫡後、忠興の後継者候補は誰になったのか。それは、次男の興秋(おきあき)ではなく、三男の忠利(ただとし)であった。この決定には、当主である忠興の意向が影響したであろうが、ほかにいくつか理由が考えられる。

 

 第一に、忠利は幼少時から江戸に人質として送り込まれており、秀忠と親しい関係にあったと推測されることである。忠利は関ヶ原合戦には出陣しなかったが、以後の幕府との関係を考えるうえで重要な要素であった。

 

 第二に、興秋が一時的とはいえ、他家つまり叔父・興元の養子になっていたことは、少なからず悪影響を及ぼしたと考えられる。主に以上の二つの理由により、興秋は後継者への道を断たれたと考えられる。

 

 正式に細川家の後継者となった忠利は、江戸における人質生活を終えることになった。代わりに人質になったのが、後継者の道を断たれた興秋である。ところが、ここで信じ難い大事件が勃発する。

 

 『慶長日件録』によると、慶長10年(1605)1月、興秋は江戸に赴く途中に出奔し、突如として京都の南禅寺(建仁寺という説も)で出家したのである。『細川家記』の記す出奔の理由とは、自身が家督を継げないという不満であった。

 

 別の史料によると、興秋は人質として江戸に行くことを不満に思っており、忠興と興秋との関係は非常に険悪であったという。家臣の長岡肥後が仲介をしようとしたが、状況が好転しないまま興秋は出発した。そして、京都に到着すると興秋は出奔し、南禅寺で出家したというのである。

 

 興秋が出奔したため、長岡重政が代わりに人質として江戸に送り込まれたが、このような大失態が幕府から許されるはずがない。翌慶長11年7月27日、忠興は長岡肥後を管理の不行き届きとして討伐した。興秋の出奔事件は、こうして闇に葬られたのである。

 

 大坂冬の陣が開始すると、興秋は豊臣方に味方した。『本光国師日記』によると、興秋は忠興とは絶縁状態にあり、もはや選択肢はなかったのである。しかし、興秋は豊臣方に身を投じたものの、結果は無残な敗北だった。

 

 慶長20年6月6日、京都の東林院で興秋は切腹した。家康は興秋を許そうとしたが、忠興はそれを断ったという。

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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