細川興秋はなぜ豊臣方に身を投じたのか?【前編】
歴史研究最前線!#021
細川忠興と興元の確執

細川興秋が城代として任命された小倉城(福岡県北九州市)。
大坂の陣では、一つの家から徳川方と豊臣方に分かれて戦うことがあった。たとえば、細川藩は徳川方に属したが、細川忠興の次男・興秋(おきあき)だけは豊臣方へと走った。なぜ、彼は大坂城に入城し、豊臣家に与したのであろうか。そこには、多少複雑な経緯があった。
『寛政重修諸家譜』によると、興秋は天正12年(1584)に忠興の次男として生まれた。参考までにいうと、忠興の長男は忠隆、三男は忠利である。その後、叔父の細川興元が子に恵まれなかったため、一時期の興秋は興元の養子になったという。
慶長5年(1600)9月に勃発した関ヶ原合戦において、興秋は父の忠興と兄の忠隆とともに東軍に属し、勝利に貢献した。戦後、忠興は家康から軍功を認められ、豊前と豊後の両国に39万9千石を与えられ、大大名へと成長した。
その際、興秋は興元の跡継ぎと目され、小倉城(福岡県北九州市)代に任命された。実は、これには事情があった。忠興と興元は仲が良くなく、対立することがしばしばあったという。それゆえに取られた措置であったと考えられる。
慶長9年(1604)、興元に大望の男子が誕生した(のちの興昌)。これが興秋にとって、不幸のはじまりであった。おそらく興元に後継者たる男子が誕生したので、興元から養子縁組は解消されたと考えられる。
細川家には、忠興の後継者をめぐって複雑な事情があった。本来、忠興の後継者は長男の忠隆の予定であった。関ヶ原合戦において、忠隆は軍功をあげており、細川家の後継者として文句のない逸材であった。
ところが、忠興の妻・ガラシャは、大坂玉造(大阪市中央区)の屋敷で石田三成に攻められて亡くなった。同じ頃、忠隆の妻・千世(前田利家の娘)は宇喜多氏の屋敷に逃れたので、辛うじて命を長らえた。
この一事を幸いとして、もともと家康は前田家と細川家が姻戚関係にあるのを快く思っていなかったので、千世が宇喜多屋敷に逃亡したことを難詰(なんきつ)した。忠興は忠隆に対し、妻との離縁を迫るが、その要求は拒まれたという。
忠興が豊前・豊後に下国する際、忠隆の帯同は許されず、慶長9年に廃嫡された。以後、忠隆は剃髪して「長岡休無」(ながおかきゅうむ)と号し、京都で生活することになる。
では、忠隆が廃嫡されたあと、誰が後継候補になったのだろうか。