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上杉家家臣・藤田信吉の出奔と会津征討【前編】

歴史研究最前線!#011

徳川家・上杉家の間にあった一触即発の緊張感

信吉が生まれた埼玉県長瀞町に建てられた武蔵天神山城の模擬天守

 関ヶ原合戦の引き金になったのは、徳川家康による会津征討である。会津征討の原因の一つは、重臣の藤田信吉が上杉家を出奔したことにあった。信吉は上杉家譜代の家臣でなく、変わった経歴の持ち主である。以下、信吉の来歴を取り上げておこう。

 

 永禄2年(1559)、信吉は藤田康邦の子として誕生した(諸説あり)。康邦は天神山城(埼玉県長瀞町)主であり、北条氏に家臣として仕えていた。当初、信吉は北条氏に仕え、用土姓、小野姓を名乗っていたが、兄・重連が藤田(北条)氏邦に謀殺されるなどしたため、ついに北条家中を去った。

 

 信吉は北条家中を飛び出した後、武田勝頼の家臣となった。その勝頼が天正10年(1582)3月に織田信長によって天目山の戦いで滅ぼされると、信吉は越後に逃れて上杉景勝に仕官した。

 

 信吉は上杉家中で新参家臣とはいえ、景勝から重んじられ、新発田重家の討伐や佐渡攻略に貢献した。天正18年(1590)の小田原北条氏征伐でも、上野の松井田城を守る北条氏の家臣・大道寺政繁の調略を任され、開城させることに成功する。

 

 信吉の活躍は認められ、1万1千石を領有することになった。この知行高は、上杉家中で4番目に位置していた。したがって、いかに景勝が信吉の手腕を高く評価していたかがわかり、まったくの外様としては異例の大出世だった。

 

 信吉は景勝から重用されたにもかかわらず、なぜ上杉家を出奔して家康のもとに走ったのだろうか。江戸時代に成立した『会津陣物語』という編纂物には、一連の事情が詳しく書かれている。

 

 慶長5年(1600)1月、信吉は家康に年賀の祝詞を申し上げるべく、上杉家を代表して上洛した。景勝の名代である。その際、徳川家への奉公を誓った信吉に対して、家康は刀や銀を与えた。しかし、このことがのちに大きな問題となった。信吉の行為は、家康との関係が疑われ、景勝に謀反の意があるとされてしまったのである。

 

 会津に帰国した信吉は、家康から刀などを与えられたことが問題視され、危うく討伐されそうになった。それほどまでに、上杉家と家康の間では、一触即発の緊張感があったと考えられる。そこで、同年3月15日、ついに意を決した信吉は、同じく上杉家家臣の栗田刑部とともに、上杉家中を去ったのである。栗田氏もまた、景勝と反目する関係だったといわれている。

 

 二人が家康のもとに向かう途中、栗田刑部だけは追手によって、家臣や妻子ともども信夫郡伏拝(福島市)で討ち取られたという。しかし、その後も栗田刑部の存在が確認できるので、これは誤りであると指摘されている。

 

 信吉は上杉家中を辞して、命からがら会津から逃げ出した。江戸に到着したのは、同年3月23日のことである。信吉は徳川秀忠と江戸で面会すると、景勝に謀反の意があると報告した。むろん、徳川家には無視できない情報だった。この一連の動きが会津征伐につながったというのである。

 

【主要参考文献】

渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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