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上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相 後編

歴史研究最前線!#008

進軍のリスクマネージメントという視点

徳川秀忠

徳川秀忠 東京大学史料編纂所所蔵模写

 秀忠が上田城攻略に手を焼いている最中の9月8日、秀忠は上洛を命じられた(『森家先代実録』所収文書)。そこで、秀忠は上田城攻撃を断念し、押さえの兵を残して西へと急いだのである。

 

 ところが、戦いによる遅延に加え、道中の悪天候が災いし、思うように歩を進めることができなかった。家康サイドでは秀忠軍の遅延が問題となり、協議に及んだが、井伊直政は待たずして決戦を主張し、本多忠勝は待つことを主張する有様であった(『朝野旧聞裒藁』慶長5年9月11日条)。

 

 結局、東軍は9月15日の関ヶ原本戦で勝利を得たものの、秀忠は間に合わないという大失態を演じたという。家康は秀忠が遅参したことについて、大いに不満だったと伝わる。以下、秀忠の行程を確認しよう。

 

 9月6日、家康は福島正則に対して書状を送り、秀忠は9月10日頃に赤坂に到着するだろうと述べているが(「福島文書」)、実は家康が派遣した使者が大雨によって、到着が遅れているという現実があった。

 

 上洛を命じられた秀忠であったが、小諸を出発したのは9月10日で、9月13日にようやく下諏訪(長野県諏訪市)に到着した。そして、9月17日に妻籠(長野県南木曽町)に至り、そこで東軍の戦勝を知ったという。

 

 秀忠が中山道を行軍した理由について、考えなくてはならないのが、リスク管理である。家康と秀忠は、池田輝政と福島正則の先鋒部隊と合流する予定だったが、ルートを一つに限るわけにはいかなかった。

 

 たとえば、途中で思いがけず敵対勢力に遭ったり、自然災害で道が遮られ、遅延することが想定される。

 

 東海道は富士川、天竜川などの大河川が多く、順調に進軍できるとは限らなかった。部隊を二つに分けたのは、単に秀忠が上田城の真田氏を叩くだけでなく、リスク回避という視点も必要だろう。

 

 秀忠の遅参は失態と言えばそうかもしれないが、実態としては連絡の遅延や悪天候という悪条件が重なった、不幸な出来事だったと言わざるを得ない。後世の編纂物が秀忠の失態をことさら強調するのは、何らかの意図があってのことと考えられる。

 

 そもそも秀忠は、真田氏を叩くために上田城に向かったと指摘されている。ましてや、最初から9月15日に関ヶ原で戦うことが決まっていたわけではないので、家康の関ヶ原へ来るようにとの命令は、あまりに急だったのである。

 

 したがって、秀忠遅参の件は家康も織り込み済みであり、勝てるという強い確信があったので、あえて秀忠の到着を待たず西軍との決戦に臨んだのである。

 

【主要参考文献】
 渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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