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関ヶ原の戦いで敗れ九度山に蟄居していた真田信繁(幸村)が夢中になっていたものとは?

第0回「歴史人検定」練習問題①


関ヶ原の戦いの後に、徳川家康によって九度山(和歌山県伊都郡九度山町)に幽閉されていた真田信繁(幸村)には、ある楽しみがあった。真田家の重臣である木村綱茂の勧めによって始めたという、その趣味とは一体何だろうか?


Q.関ヶ原の戦いで敗れ、九度山に蟄居していた真田信繁(幸村)が夢中になっていたのは次のうちどれか?

 

1.連歌

2.和歌

3.能楽

4.歌舞伎

 

 幾度の合戦を繰り広げたその武名からは、想像しづらいかもしれない。名将として知られる真田信繁(幸村)が、蟄居(ちっきょ)の間に夢中になっていたものがある。

 

 慶長5年(16009月の関ヶ原合戦後、真田信繁は父・昌幸とともに九度山(和歌山県九度山町)に逼塞していた。その後の生活で、信繁の心の慰めになったのは連歌だった。

 

 年未詳920日付の信繁の書状(宛名欠)では、自らの窮乏生活を宛名の主に伝え、兄である信之に伝えてもらうよう依頼している(「長井彦介氏所蔵文書」)。兄を頼ったのは、やはり真田家の当主でもあり、また金銭的な援助が期待できたからであろう。

 

 書状の後半部分では、高野山での苦しい生活を推察いただきたいと述べている。しかし、追伸では信繁が九度山で連歌を学んでおり、機会があれば興行したいと書いている。信繁の日々のささやかな楽しみは、連歌だったようである。

 

白石城(宮城県白石市)で実際に着用できる、真田信繁が着用した「赤備え」のレプリカ。城内には撮影スポットももうけられている。

 経済的に厳しかった信繁は、父・昌幸と同じく「打倒家康」などは考えもしなかっただろう。似たような内容の書状は、ほかにも残っている。

 

 慶長18年頃と考えられる12月晦日付の信繁の書状(真田家の重臣・木村綱茂宛)には(「宮沢常男氏所蔵文書」)、変わることなく過ごしているので安心するように述べ、一方で冬の生活に不自由していることにも触れている。また、窮乏した生活を察して欲しいとし、綱茂にお目にかかりたいと結んでいる。少し回りくどいものであるが、切々と苦境を訴えていることがわかる。

 

 書状を送った主旨は、歳暮として鮭を送られたことに対する返礼であるが、同時に苦しい状況を吐露しているのだ。生活は変わることはないと書かれているが、経済的に厳しい状況を匂わせているので、実際はそうでなかったのだろう。婉曲に状況を伝えるのは、少なからずプライドが残っていたからかと思われる。

 

 書状の追伸では、綱茂が連歌に熱心に取り組んでいることを知り、信繁も日々の慰みに連歌を勧められたと述べている。しかし、老年になってから取り組んだので、なかなかうまくならないことを残念がっている。もし、信繁が本格的に連歌を学んでいたら、かなり上達していたかもしれない。

 

1211日(土)開催「歴史人検定 第0回」練習問題より

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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