新兵器「地雷火」で家康を追い詰めた真田信繁
歴史研究最前線!#075 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊶
真田信繁の有名なエピソードのひとつとして、徳川家康を合戦で追い詰めたという逸話がある。「地雷火」なる特殊な兵器を使って、子の大助とともに家康を散々な目に合わせたとの記録が残っているが、果たして事実なのだろうか?

長野県小県郡真田町(現・上田市)の有志によって、平成6年に結成された真田鉄砲隊。赤備えの鎧に身を包み、大坂の陣で活躍した真田流鉄砲術を現代に伝えるべく活動している。
家康が信繁から散々苦汁を飲まされた逸話は事欠かない。中には、家康が殺されたとの説があるくらいだ。家康が信繁に苦戦したのはたしかかもしれないが、中には荒唐無稽な逸話もある。
『厭蝕太平楽記』などによると、信繁が地雷火(「火竜の備」などともいう)を使って、家康に火傷を負わせたという逸話がある。
家康は平野におびき出され、陣のある辻堂の近くで小用を足していた。すると、突然大爆音が鳴り響きわたり、辻堂などが吹っ飛んだ。
これが信繁の使った地雷火である。火竜は焔硝(えんしょう/火薬)に引火すると、石矢火(いしびや/銃)を放ったかのようであったという。
ほかの軍記物語によると、地雷火は着弾と同時に破裂し、異様な臭気を放ったというものもある。また、着弾と同時に地雷火から虫が飛び出すとものもあった。常識では考えられない兵器である。
体中に火傷をした家康は命からがら逃げ出し、途中で伊達政宗に助けられた。その後、徳川方の諸将も駆けつけてきたが、信繁方の根津甚八、増田兵太夫に攻撃された。
ここで家康は切腹を覚悟するが、大久保彦左衛門に諌められ、住吉(大阪市住吉区)へ逃亡しようとしたのである。
ところが、ここでも信繁方から砲撃され、家康はわずかな従者を引き連れ我孫子村(大阪市住吉区)に逃れようとした。
再び家康は豊臣方の伊藤丹後守に攻撃されたが、徳川方に通じていた浅井周防守に救出され命を長らえた。
結局、家康は岸和田(大阪府岸和田市)を経て貝塚(同貝塚市)まで逃亡し、子の秀忠も父と同じく悲惨なことになった。一連の話はよく知られた逸話であるが、まったくの事実無根の創作に過ぎない。
それは、『通俗三国志』などのエピソードをもとにしたフィクションなのだ。信繁は奇策と地雷火という新兵器により、天下人の家康、秀忠を討ち取る寸前まで追い込んだ。
そして、家康と秀忠は信繁に負け続け、ひたすら逃亡するだけである。ただ、信繁はあと一歩のところで、家康、秀忠を討ち取れなかったのだ。
地雷火とは、信繁・大助父子が爆薬を自由自在に扱ったという、後世の創作に過ぎない。当時、そのような武器はなく、信繁が地雷火をわずかな短期間で開発したとは考えられないのである。