真田大助が佩楯(はいだて)を身に付けたままで亡くなった理由
歴史研究最前線!#072 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊳
大助は生きていた? 父・信繁と同様に伝わる生存説

現在の大阪城天守閣。豊臣秀吉が築いた「大坂城」の遺構はほぼ埋没しており、現在は1931年(昭和6年)に復興された天守と、徳川幕府により建造された櫓や門を目にすることができる。
大助の死の場面については、ほかのエピソードもある。
『明良洪範』によると、落城した大坂城には、数え切れないほどの死骸があった。発見された大助の死骸は具足を脱ぎ、佩楯(はいだて)を身につけたままであったという。佩楯とは甲冑の小具足の一種で、草擢(くさずり)と臑当(すねあて)との間の大腿部の防御具を意味する。
通常、切腹の際には佩楯を取っていたが、大助は着用したままだった。その理由については、次のように記されている。
大助が切腹に臨んだとき、周囲から佩楯を取るように勧められた。ところが、大助は大将たる者の切腹は、佩楯を取らないと主張した。
ほかにも、佩楯を身に付けたまま切腹する理由があった。死骸が誰のものか確認する際、佩楯を着用していれば、すぐに大助のものだとわかるからである。大助は、佩楯を着用したまま切腹することを涙ながらに訴えた。
この言葉を耳にした人々は、若いとはいえさすが信繁の子であると非常に感心したという。同時に、その殊勝な心掛けに涙した。信繁も最後の戦いにおいて、死骸が自分のものとわかるようにしていた。
信繁・大助父子は、最後まで武士の心得を守り抜いたといえるのだろう。それゆえ、人々の心を捉えたのかもしれない。
確実な史料によって、大坂城で大助が秀頼の側で仕え、最期に腹を切ったことは間違いない。大助の最期はドラマチックに描かれているが、それが史実であるかといえば疑問である。
大助の死は、近世の「武士道」という理想に沿って、大助の死を感動的に仕立て上げられたのではないだろうか。
以上のように大助が大坂城で死んだのは疑いないのであるが、実は生き残ったという伝承も残っている。
死んだと思われた大助が実は生き延びており、のちに名を高井長左衛門と改めて、堺に住んだという説がある(「蓮華定院月牌帳」「八木系図」など)。その事実を裏付けるかのように、長左衛門の家紋は六文銭であったという。
のちに、大助は四代将軍・徳川家綱から召し出され、五代将軍・綱吉の代まで仕官した。亡くなったのは、慶安4年(1651)7月20日である。その後、子孫(子は幸正という)は存続したというが、どこまで史実なのか判断し難い。
大助が生存したという説は、信繁と同様に大助の生存を願望し、生み出された逸話と考えられよう。