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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉟

歴史研究最前線!#069

信繁の首は本当に獲られたのか?

心眼寺(大阪市天王寺区)にある、真田信繁の墓。心眼寺には真田幸村(信繁)出丸城跡の石碑も残っている。

 前回の続きである。

 

 慶長20年(1615)5月7日、信繁は西尾久作に討ち取られてしまった。信繁生存説と相俟(あいま)って、問題となるのは久作が本当に信繁の首を獲ったのかということになろう。

 

 翌8日、信繁の首は、首実検が行われた。ほかの豊臣方の武将の生死の確認も厳密に行われたが、信繁の場合は格別だったであろう。それは、信繁が真田丸で活躍したことも影響しているが、ほかにも理由が考えられる。

 

 大坂の陣がはじまると、家康は信繁を討ち取った者には、5万石でも10万石でも与えると約束していた。家康は、それほど信繁を恐れていた。

 

 5万石、10万石の恩賞を与えるためには、確実に信繁の首であることを判定しなくてはならない。それゆえ慎重にならざるを得なかったのである。

 

 現在ならば、信繁の首をDNA鑑定や歯形の一致などで確認するなど、科学的な根拠に基づき検証が行われるに違いない。

 

 しかし、当然ながら、当時はそうした技術はない。したがって、普通は同じ合戦に出陣した者に確認するなどの方法が採られた。

 

 ところで、家康は信繁の首に対して、本当に5万石または10万石の価値を認めたのか。率直に言えば、信繁の首に特別の価値を認め、大名クラスに引き立てるのには疑問がある。

 

 おそらく信繁を引き立てるためのフィクションであり、史実ではないのだろう。家康が信繁を恐れていたことを強調する逸話に過ぎない

 

 信繁の首実検の際には、久作をはじめ合戦に出陣した者に聞取り調査が行われた。ところが、首実検についてはいくつもの逸話があるので、それらを取り上げて検証することにしよう。

 

 『慶長見聞記』などによると、家康は信繁の叔父・信尹(のぶただ)に首実検をさせたという話が残っている。身内ならば、もっとも確実である。

 

 信尹は信繁の首を確認したのであるが、顔の傷の有無について、ほとんど覚えていなかったようだ。信尹は夜も遅く暗くて、しかも信繁が奥に座っており、顔を十分に見ることができなかったと答えた。

 

 業を煮やした家康は、「昨年信繁に面会したのに忘れたのか」と厳しく信尹を叱責したという。こちらも、やや出来過ぎた話のように思える。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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