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真田信繁の影武者として活躍した穴山小助

歴史研究最前線!#066 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉜

真田十勇士の一人・穴山小助も影武者だった

穴山小助が亡くなったと伝わる四天王寺庚申堂(大阪市天王寺区堀越町)の境内左手に建つ「三猿堂」。「見ざる・言わざる・聞かざる」の意匠で彫られた3体の木彫りの猿が安置されている。

 

 

 あるとき信繁が死んだと称して、7人の影武者が腹を切り、顔がわからないように火中に投じられた。首実検が行われた際、御宿勘兵衛は信繁の影武者だった伊藤継基(つぐもと)の首を抱えていたという。

 

 家康は「それが本物の信繁の首ならば、勘兵衛は切腹するだろう」と述べると、勘兵衛は本当に腹を切っていた。これにより、首は信繁のものと信じてしまった。

 

 家康は信繁が本当に死んだと思い込み、豊臣方へ攻撃しようとするが、実は信繁は死んでいなかったので驚倒(きょうとう)するのだ。

 

 以上の話は荒唐無稽なものであり、にわかに信じ難い。死んだと思った信繁が亡霊のようにあらわれ、家康を苦しめるという話にしたかったのであろう。また、信繁生存説に一役買ったのかもしれない。

 

 信繁の影武者の話は、ほかにもまだある。

 

 豊臣方と徳川方が最後の戦いに臨んだとき、信繁の影武者の一人・穴山小助が活躍したというエピソードがある。穴山小助は、「真田十勇士」の一人と称された人物である。

 

 豊臣方が敗北を喫し大坂城に退くと、家康は天王寺(大阪市天王寺区)へと軍勢を進めた。すると、約300人の六文銭の旗印を掲げた真田の軍勢が、庚申堂(こうしんどう)から家康の本陣へと攻め込んできたのである。

 

 真田勢を率いる信繁は、自らも槍を取って奮戦した。しかし、次々と配下の者も討ち取られ厳しい状況に追い込まれた。すると、信繁は太刀を口に咥えると、万代池(大阪市住吉区)に飛び込んで亡くなったというのだ。

 

 死体を引き上げて子細に調べてみると、それは信繁でなく影武者を務めた穴山小助だったといわれている。

 

 実は、以上の話には伏線があった。我孫子村(大阪市住吉区)において、徳川方の武将・中根隼人が捕縛された。隼人の尋問を行う際、信繁は穴山小助に対して、「お前(=穴山小助)が私(=真田信繁)であると偽って取り調べよ」と命じた。

 

 小助は命令に従って、最後まで信繁のフリをして隼人の尋問を終えた。取調べが終わったあと、信繁に扮した小助は次のように述べた。

 

「私は天命を知っている。忠臣(=中根隼人)を殺すには忍びない。戦いがはじまったら、この信繁の顔をよく覚えておいて、首を取って手柄にせよ」

 

 こう述べると、信繁に扮した小助は隼人を逃がした。おそらく隼人は、小助を信繁と思ったに違いない。そして、それは徳川方に広まったであろう。これも信繁の作戦であるが、事実であるか否かは不明である。

 

 

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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