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真田信繁の配下“真田十勇士”【前編】

歴史研究最前線!#064 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉚

江戸時代から長い年月をかけて広まった真田十勇士の魅力

長野県上田市にある真田十勇士の石像。真田信繁を含めた11名の石像が、小牧城の登山口付近に立っている。

 

⑥海野六郎(うんのろくろう)

 信濃の名族・滋野氏の流れを汲む海野氏を出自とする。真田家譜代の家臣。根津甚八とともに奥州で諜報活動をし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣ではニセの情報を流し、徳川方を撹乱させた。大坂落城後は、信繁と共に薩摩へ落ち延びたという。

 

⑦筧十蔵(かけいじゅうぞう)

 もとは阿波蜂須賀氏の家臣。のちに信繁の人柄に惹かれ、配下に加わった。火縄銃の名人として知られる。慶長20年(1615)の大坂落城後は信繁と共に薩摩へ落ち延びたという。

 

⑧霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)

 近江の大名・浅井家の侍大将を務めた霧隠弾正左衛門の遺児。浅井家滅亡後、伊賀国名張(三重県名張市)に逃亡したところ、伊賀流忍術で知られる百地三太夫(ももちさんだゆう)の教えを受けた。

 

 三太夫から忍術をマスターした才蔵は、信繁の配下にあったとき、霧隠鹿右衛門と名乗っていたが、のちに才蔵に改名させられたという。

 

⑨望月六郎(もちづきろくろう)

 信濃の名族・滋野氏の流れを汲む望月氏を出自とする。信繁が九度山(和歌山県九度山町)で逼塞(ひっそく)しているとき、留守役として共に生活し、爆弾の製造も行っていた。慶長20年(1615)の大坂夏の陣では影武者を務め、最期は徳川方の大軍に囲まれ自害する。

 

 真田十勇士のうち、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之介、筧十蔵、海野六郎、根津甚八の8人の原型となる人物は、元禄期に成立した真田昌幸・信繁・大助の真田三代を主人公とする『真田三代記』に登場した。

 

 その後、同書などをもとにして、神田龍伯によって『難波戦記』という書物が著され、やがて猿飛佐助、望月六郎の2人を加え、真田十勇士になった。

 

 明治44年(1922)、立川文明堂から「立川文庫」が刊行され、中でも『真田幸村』と『真田十勇士』はもっとも人気があった。同書を通じて、真田信繁と真田十勇士の話は広く知られるようになる。

 

 しかし、真田十勇士の存在は、たしかな史料では確認できない。先述した真田十勇士の説明は、『真田三代記』や「立川文庫」の『真田十勇士』などに基づくもので、まったくの空想なのである。

 

 あれほど人気のある真田十勇士は、近世に成立した編纂物などが「立川文庫」でさらに脚色され、信繁が家康を苦しめるという痛快無比な作品に仕立て上げられているに過ぎないのである。

 

 

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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