加賀藩史料から推察する真田丸の「全貌」
歴史研究最前線!#059 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉕
防御が薄く弱点と思われた大坂城の南方・平野口に“真田丸”を築城

心眼寺(大阪市天王寺区)にある、真田幸村出丸城跡碑。石碑に書かれている「真田幸村 出丸城跡」の”出丸”が真田丸を指している。
いよいよ豊臣方と徳川方の戦いが開始されようとすると、信繁は「真田丸」の築城に着手した。築かれたのは、大坂城の前である。
信繁が築城した「真田丸」とは、大坂城の平野口に信繁が築いた出丸のことである。今も大阪市天王寺区餌差(えさし)町心眼寺に出丸城跡碑があり、少しは遺構も残っている。
信繁は大坂城の南方が比較的防御が薄いという弱点を考慮したうえで、平野口に「真田丸」を築いたという。信繁が恐れたように、徳川方の主力部隊は大坂城の南側に陣を敷くことになった。
「真田丸」は本丸と二の丸で構成されており、東西は約180メートル、土塁の高さは約9メートル、堀の深さは約6~8メートルという規模だった。
わずかな期間で築いたとはいえ、「真田丸」はなかなかの規模の城郭と評価されているので、大坂城の前に築かれた小城というイメージは見直さなくてはならない。
ただ、大坂冬の陣における「真田丸」の攻防を描いた「屏風図」は観念的に描かれており、忠実に合戦の模様を再現して描いたとはいえないようだ。それゆえ、小城というイメージが残るのは、いたしかたないだろう。
城郭研究の第一人者・北垣聰一郎氏は、大坂冬の陣における加賀藩の仕寄り(城などを攻めること)の配置図「大坂真田丸加賀衆挿ル様子」(永青文庫蔵。以下、「加賀真田丸図」と略す)を用い、真田丸の検討を行った。その概要を列挙すると次のようになろう。
①「真田丸」の周囲には「空堀」があり、それが「真田丸」に接近するに連れ「水あり(水をたたえた堀)」になっていたこと。
②堀の底には、柵が張られていたこと。
③狭間塀を設けた土塁の傾斜は、六間(約10.8メートル)ほどあったこと。
④堀際にも柵が設置されていたこと。
⑤陣所から「真田丸」矢倉下の柵木まで百八十足(約135メートル)あるが、それは実検した数値であること。
⑥「真田丸」に立つ長幟が茜色で、真田氏のものであること。
⑦馬印は信繁の父・昌幸と同じ黒であったこと。
「加賀真田丸図」は、実際に冬の陣に出陣した人物の手控えに基づき、当時の「真田丸」の姿をかなり正確に再現し、改めて作成された図であると北垣氏は指摘している。