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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉔

歴史研究最前線!#058

大野治長の無能さと戦略が採用されなかった信繁の無念さ

大坂の陣以前の1612(慶長17)年に、甲州流軍学の創始者であった小幡景憲によって縄張りされたと伝わる喰違見附跡(くいちがいみつけあと)。土塁を前後に延ばし、道をジクザグにして兵の直進を阻むという戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち=城の出入口)の構造になっている。

 前回の続きである。

 

 信繁の意見に対して、景憲は又兵衛・信繁の積極策を否定し、治長の提案した籠城策に賛意を示した。

 

 景憲の意見に対して、信繁は反論を試みたが、治長らは自説を譲らなかった。結局、信繁の意見は退けられ、籠城が決定した。ここで重要なのは、優れた作戦を否定された信繁ら牢人たちの無念さと、大野治長以下の豊臣方の無能な譜代の重臣たちの対比である。

 

 ところが、『列祖成績』によると、大坂城の将兵は大坂城が自然な要害のうえに、兵も食糧も十分であると述べ、このような堅城はないと信繁が豪語したと記す。つまり、籠城戦は有利だと考えていたのだ。

 

 このあと信繁は戦法について、徳川方の兵がまだ半分も来ておらず、大坂城を守るのは得策ではないと述べた。そして、山崎(京都府大山崎町)に軍勢を出兵し、三軍で天王寺(大阪市天王寺区)に旗を立て、自身と毛利秀秋(ひであき)に先鋒を任せることを提案した。

 

 そして、信繁は長宗我部盛親・後藤又兵衛が攻め上がって伏見城を落とし、京都に火を放てば畿内・西海の道を塞ぎ、徳川方の兵はやってくることができず勝てると主張したのだ。ところが、この作戦には又兵衛が反論を展開した。

 

 大坂城は無双の名城なので、又兵衛は簡単に落城しないと考えた。そして、徳川の兵が屈するのを諸将が見れば、徳川方に与した太閤(=秀吉)恩顧の武将たちは、必ず寝返ってくるとし、籠城がよいと又兵衛は主張した。これまでの又兵衛の作戦と真逆である。

 

 最終的に、秀頼は又兵衛の意見を採用した。信繁の説は受け入れられず、無念の思いを噛み締めたということになろう。ただ、この種の逸話は似たような内容のものが多く、どこまでが史実なのか判然としないところがある。

 

 いずれにしても、良質な史料で確認できないが、少なくとも信繁が治長らと作戦をめぐって、深刻な対立をしたとは思えない。それは、治長の無能さと信繁の作戦が採用されなかった無念の思いを強調したものだろう。

 

 ただし、籠城戦か積極的に打って出るかの議論はあったはずで、治長らが豊臣方への味方が増えると楽観視した可能性はある。

 

(続く)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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