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真田氏が六文銭の旗印を使用した理由

歴史研究最前線!#053 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑲

複数の説が存在する「六文銭」の由来

上田城二の丸址(長野県上田市)にある六文銭の旗。真田宝物館(長野県長野市)には真田家所用とされる赤地の軍旗が現存している。

 

 真田氏といえば、六文銭(ろくもんせん/六連銭とも)の旗印や「赤備え」があまりに有名である。その由来とは、いかなるものなのだろうか。

 

 真田氏は六文銭の旗印を用いる前、同じ信濃の豪族の海野氏や深井氏も用いていた雁金(かりがね)の紋を使用としていたという。六文銭の旗印を用いた理由としては、主に2つの説が有力になっている。以下、確認することにしよう。

 

 天正10年(1582)3月に武田氏が天目山の戦いで滅亡すると、同年に真田昌幸・信繁父子は群馬県と新潟県の境にある三国峠で、上杉氏の大軍を撃退した。ほとんど戦うことがなかったという。

 

 その後、真田軍は寡兵をもって、大軍を率いる箕輪城の北条氏政と戦い、真田軍は上田城に退くことになった。当然の結果といえるのかもしれない。

 

 信繫は当時まだ14歳の少年だったが、父・昌幸に戦って家名をあげるべきと進言した。そして、白無地の旗を取り出すと、北条方の重臣・松田尾張守の紋である永楽通宝の紋をその旗に描き、敵陣に夜討ちを仕掛けた。

 

 事情を知らない北条方は松田氏が謀反を起こしたと誤解し、すぐさま総崩れになったという。信繫の作戦が功を奏したのであった。

 

 昌幸は信繁の戦功を褒め称えると同時に、六文銭の旗印の使用を許可した。これが、真田氏の六文銭旗の由来といわれているが、武田家滅亡直後はまだ上田城が完成していない。何よりも信繁の先の作戦は良質な史料で確認できず、この説は疑わしいといえよう。

 

 真田氏の六文銭の使用の由来には、もう一つの説がある。

 

 仏教で六文銭は六道銭と同義であり、それは死後に渡る三途の川の渡し賃を意味する。要するに六文銭の旗印には、死を覚悟して戦いに臨むという、真田氏の強い決意が込められているといえよう。

 

 つまり六文銭は、真田氏の配下の者が戦死したあとの三途の川の渡し賃なのである。このような決死の覚悟で戦う信繁の軍勢は、相手から大変恐れられていたということになろう。こちらの説のほうが受け入れやすいようだ。

 

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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