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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑮

歴史研究最前線!#049

合戦への無関心を装い周囲を油断させて九度山を脱出

江戸時代初頭の1620年(元和6年)から,広島浅野藩初代藩主 浅野長晟(ながあきら)が別邸の庭園として築成を開始した縮景園(しゅっけいえん)。

 前回の続きである。

 

 秀頼の招きに応じて、大坂城に馳せ参じた信繁。信繁は、いかにして九度山を脱出したのであろうか。まず、1つ目の逸話をあげておこう。

 

 紀州藩主・浅野長晟(ながあきら)は徳川家と豊臣家が合戦になると、信繁が大坂城に入城すると考えた。そこで、長晟は橋本村や九度山の住人や高野山に対し、信繁の動向に注意するよう伝達した(『武林雑話』)。一方の信繁は、村々の者を呼び集め、酒宴を催している最中に脱出しようと考えていた。

 

 酒宴の場所は九度山の宿所に仮屋を設け、酒を飲める者も飲めない者も含め数百人の村人を招いたという。案の上、大量に飲酒した村人は酔いつぶれた。そうなると、誰も信繁を監視できない。この様子を見た信繁は、馬に荷物を括(くく)りつけ、弓・鉄砲を持った100人ばかりの人々を引き連れ、紀ノ川をわたり橋本峠へ脱出した。

 

 翌朝、百姓が起床すると、信繁は脱出したあとだった。百姓らは信繁を探したが見つからず、やがて河内国に着いたことを知ると、大変悔しがったという。

 

 また、別のエピソードも残っている。

 

 10月8日の玄猪(げんちょ)の日、信繁はイノコ餅(万病を払う効果がある餅)を配り歩き、夜は蓮華定院で碁を楽しんでいた(『仰応貴録』)。そこへ高野聖(諸国を勧進して回る聖)が戻って来て、徳川方と豊臣方との関係が破綻し事態が急変したため、帰路の関所が数ヵ所も築かれそうになり、命からがら帰ってきたと報告した。

 

 話を聞いた信繁は「私も牢人でなければ大坂城に籠城するのに」と述べると、「今は餅を食べ碁を打って、何と楽しいことか」とまったく徳川家と豊臣家との事態に関係ない態度を示した。この発言は、周囲を油断させる信繁の周到な作戦であった。

 

 やがて、信繁は小用に立ち外に出ると、家来に九度山から大坂まで出陣の準備するよう命じた。その後、信繁は回りの者を引き連れ、未明には大坂城に着いたという。高野聖の情報を聞き、すぐに脱出したのだ。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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