病と貧困に苦しむ晩年の真田昌幸が信之へ送った書状とは?
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九度山での幽閉生活が11年続き、晩年は貧困と病に苦しむ

昌幸の父・幸隆が開山した長谷寺(長野県上田市)は真田氏の菩提寺。春先は枝垂れ桜の名所として賑わう。
関ヶ原の戦い後、一大名から転落した真田昌幸の経済的基盤は、どうなっていたのだろうか。
年次不詳1月5日付の昌幸の書状(宛名欠)には、昌親(まさちか/昌幸の三男)から臨時の扶助金40両のうち20両が送金されたと記されている(「真田神社文書」)。
昌幸には多額の借金があり、返済に困っていたため、すぐに残りの20両の送金を依頼した。とにかく準備ができ次第送金して欲しいと言うのだから、かなり経済的に困窮していたようだ。昌幸の生活は経済的に厳しく、とても「打倒家康」を考えるゆとりはなかったと考えられる。
昌幸の晩年は、病気との闘いであったといえる。年未詳(慶長15年・1610頃)3月25日付の昌幸書状(信之宛)には、昌幸が病に苦しんでいた様子が克明に書かれている(「真田家文書」)。以下、概要に触れておこう。
昌幸は国許の状況を知るため、配下の青木半左衛門を遣わした。昌幸は信之が病気と知ると、こちらは変わりないので心配しないようにと言いつつも、加齢により気力・体力ともに衰えたと述べている。
そして、自身の状況(貧困、病気)を悟って欲しいと述べ、追伸の部分では田舎のことなので、何かと不自由なことを推察して欲しいとし、とにかく大変疲れたと書いている。信之に心配を掛けないようにしているが、病気になった昌幸は心身ともにすっかり弱っていたようだ。
別の年未詳の昌幸の書状(信之宛)には、自身の病気が長引いていること、信之に会いたいと思っているが、それが叶いそうにないことを書き綴っている(「真田家文書」)。もし、病気が治った場合は、信之に会いたいと書いているので、相当体が弱っていたのではないだろうか。
慶長16年6月4日、昌幸は65歳で真田庵で病没した。九度山での幽閉生活は11年にも及んだ。ここまで記したとおり、昌幸の晩年は通説と大きく異なり、病と貧困に苦しんでいた。
法名は、龍花院殿一翁殿干雪大居士という。九度山の真田庵には宝塔があり、昌幸の墓所とされている。『先公実録』によると、昌幸の火葬後の慶長17年8月、河野清右衛門幸壽が分骨を持ち出し、長谷寺(長野県上田市)に納骨したといわれている。そのため、墓は長谷寺にもある。