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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑥

歴史研究最前線!#040

信之の助命嘆願により死を免れるも九度山への蟄居を命じられる

昌幸・幸村は九度山(和歌山県伊都郡九度山町)にある善妙称院(現・真田庵)で蟄居後の生活を過ごした。

 前回の続きである。

 

 江戸時代後期の儒学者・中井竹山(なかいちくざん)の著作『逸史』によると、合戦後における家康配下の武将たちは戦いで指物(さしもの)や甲冑(かっちゅう)が痛んでいたが、秀忠の軍勢は見事な軍装であり(戦いによる痛みがない)、かえって目立ったため見苦しかったという。ただ、秀忠軍も上田城(長野県上田市)で戦ったのは事実なので、誇張した表現であると考えられる。

 

 昌幸・信繁の存在は、秀忠からすれば許しがたいものがあり、厳しい処分は避けられなかったといえよう。徳川方は勝ったから良かったものの、負ける可能性ももちろんあったのである。当初、昌幸・信繁父子は処刑となり、上田領の没収という厳罰が科されるはずだった。

 

 このような状況下、信之は義父の家康に上田領拝領の辞退を申し出、2人の助命嘆願を行った。結果、家康は昌幸・信繁父子の処分を改め、高野山(和歌山県高野町)の麓の九度山(同九度山町)へ蟄居(ちっきょ)することを命じた。同時に、信之には上田領が与えられた。昌幸の罪は重かったが、信之の助命嘆願により死を免れたという(『寛政重修諸家譜』)。

 

 皮肉なことに、昌幸が関ヶ原合戦で下した決断は、自らの命を救うだけに止まらず、真田家を繁栄させる契機となった。もし昌幸がここまで予測していたとするならば、恐るべき先見性の持ち主である。

 

 2人が死罪を免れた理由は、信之の妻・小松姫が家康の養女(本多忠勝の娘)であったことも大きく作用したと考えられる。しかし、『真田家譜』『真田家系譜』などによると、2人が許された一番大きな理由は、信之の徳川家康への多大な忠誠心だった。家康も信之を認めていたことになろう。

 

 家康から信之は大幅に加増され、のちに初代上田藩主となった。さらに、その後は松代(長野市)に移り、明治維新に至る約300年もの間、真田家は連綿と続いたのである。信之は、実質的な真田家中興の祖だったといえよう。その功績は、末永く称えられることになった。

 

 関ヶ原合戦の終了後、昌幸は当時としては高齢の部類に属する54歳になっていた。子の信繁は34歳であり、まだ働き盛りの年齢だった。敗戦がなければ、信繁の前途は大いに変わっていたかもしれない。昌幸・信繁父子は、九度山において厳しい生活を強いられることになる。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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