真田「幸村」と「信繁」、どちらの名が正しいのか?
歴史研究最前線!#036 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁②
「信繁」よりも世に認知されている「幸村」の名は俗称にすぎない

大坂夏の陣で、真田信繁(幸村)が討死したと伝わる安居神社(大阪府大阪市天王寺区)境内内にある銅像。
真田信繁の外見であるが、大坂の陣のときには、44~45歳くらいの年齢に見えたという。体格は小柄であり、額には2、3寸(6~9センチメートル)の傷があったといわれている(『長澤聞書』)。外見には、際立った大きな特徴がなかったようである。ごく普通の男性だったようだ。
つまり、英雄としての信繁の外見は非常に地味であり、あまりにインパクトが弱いようである。
もう一つの重要なポイントとして、名前が「幸村」か「信繁」のいずれが正しいかという問題がある。これまで、真田幸村に関する本のほとんどでは、「信繁」でなく「幸村」と記されてきた。
実は、かなり以前から「信繁」が正しいと指摘されてきたが、未だ定着していない。その点について、もう少し考えることにしよう。
寛文12年(1672)に『難波戦記』という大坂の陣を描いた物語が刊行され、そこで「信繁」でなく「幸村」という名前が用いられた。同書で使用されたのが、初めてであるといわれている。
すると、「幸村」の名が一般庶民の間に一気に広まったといわれている。以後、「幸村」という名前は似たような軍記物語で使用されるようになり、やがて講談師が信繁の活躍を講談でしゃべるようになった。
参考までにいうと、江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』をはじめ、真田家の系図類にも、「幸村」と書かれていることが多い。つまり、江戸幕府によって、公的なお墨付きが与えられたような印象が残る。
ただし、実際の信繁(幸村)の書状を確認すると、「信繁」という署名が用いられている。残念ながら、「幸村」と署名されたものは確認できない。つまり、「幸村」は二次史料で用いられているに過ぎないのである。
ところが、すでに「幸村」という名前で浸透しているので、「信繁」と書くと普通の人にはわからないことがある。したがって、書籍のタイトルなどには「幸村」が用いられてきたのはたしかだ。
今になってから「『幸村』は間違いであり、信繁が正確である」と言っても、なかなか理解を得難いのが現状である。しかし、「幸村」いう呼称は、やはり俗称に過ぎないので、その点はしっかり確認しておきたい。