家康戦死の逸話と真田信繁のヒーロー像
歴史研究最前線!#076 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊷
徳川15代の祖として知られる徳川家康は、合戦にまつわる数多くのエピソードで知られている。その中には荒唐無稽なものもあり、家康の「戦死」を記した逸話も残っている。

南宗寺にある、徳川家康の墓碑。南宗寺は、堺を支配していた武将である三好長慶が建立。境内にある枯山水庭園は古田織部作と伝わっており、国の名勝として指定されている。
徳川家康が真田信繁によって苦しめられた逸話の中のひとつに、家康が戦死したという話がある。昭和42年(1967)、水戸藩(徳川御三家の一つ)家老の子孫・三木啓次郎氏により、堺市南旅籠町(みなみはたごまち)の南宗寺に徳川家康の碑が建てられた。
この碑には、大坂夏の陣で家康が戦死したと記されており、同寺の家康の墓こそ本物であると書かれている。もう少し詳しく説明しよう。
元和元年(1615)5月、信繁の攻撃を受けた家康は、駕籠(かご)で逃げていたところを敵に槍で突かれたという。
大怪我をした家康は瀕死の状態となり、堺の南宗寺に着くと息絶えた。なお、異説としては、大坂冬の陣で後藤又兵衛の槍に家康が刺されたという説もある。
家康の死が伝わると、徳川方から離反者が出ると予想された。そこで、家康の側近・大久保彦左衛門は機転を利かせ、家康とそっくりだった古河城主・小笠原秀政(おがさわらひでまさ)を影武者とした。それから約1年の期間、秀政が影武者を務めたというのだ。
いうまでもないが、小笠原秀政が家康の影武者を務めたという説は、あまりに荒唐無稽すぎて、到底認めることはできない。
信繁にも影武者が存在したというが、このような話はおもしろかったので、人々の想像を掻き立てるための創作にすぎない。
元和3年(1617)3月、家康の遺体は久能山(静岡市駿河区)から日光東照宮(栃木県日光市)に移葬された。しかし、本当は南宗寺から改葬されたというのだ。
その証拠に、元和9年(1622)7・8月、二代将軍・秀忠と三代将軍・家光が相次いで南宗寺を訪問し、家康を偲んだという。また、南宗寺の近くには家康が通ったことにちなんで「権現道」もある。
このような家康にまつわる逸話は、決して信繁の存在とは無関係ではないといえる。寡兵を率いて奮闘する信繁と天下人の家康を絶えず比較し、信繁の健闘ぶりを称えたものであろう。
しかも、家康は醜態をさらけ出し、ひたすら逃げるしかなかった。こうした対照的な姿が広く受け入れられ、信繁のヒーロー像を築く要因になったのである。