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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊲

歴史研究最前線!#071

16歳の若さで散った信繁の子・大助の潔い最期

 

長國寺(長野県長野市)にある、真田信繁・大助の供養塔。同寺には真田家の歴代当主である真田信綱、幸隆、昌幸の供養塔も設置されている。

 

 信繁が無念の死を遂げたのは、すでに取り上げたとおりであるが、子の大助も大坂城で亡くなった。大助の最期については、知られざる逸話が残っている。以下、それらを紹介することにしよう。

 

 なお、以下の大助の死にまつわるエピソードは、大坂城が落城した慶長20年(1615)5月のことである。

 

 大坂の陣に際して、大助は父・信繁の命を受け、秀頼の側で仕えるため大坂城に入った(『武林雑話』)。ところが、やがて大助は、出陣した父のことが気になりはじめた。

 

 大助は父の生死を確かめるべく、大坂城内に逃げ込む人々に尋ねて回った。すると、信繁は天王寺(大阪市天王寺区)で徳川方と戦って、敵に討たれたことを知ったという。

 

 父の死に涙を流した大助は、懐から真珠の数珠を取り出した。これは故郷の母から渡されたもので、肌身離さず持っていたものだ。死期を悟った大助は念仏を唱え、静かに秀頼の切腹を待ったと伝わる。

 

 実はこの一昨日前の慶長20年(1615)5月5日、大助は誉田(大阪府羽曳野市)で戦功を挙げ、股に槍疵(やりきず)を負っていた。豊臣家家臣の速水守久(はやみもりひさ)は大助に対して、傷が痛まないか尋ねたという。

 

 守久は言葉を掛けるだけでなく、やがて徳川方と和睦が締結されるであろうから、早く城から出るよう大助に勧めた。

 

 それだけでなく、守久は大助を真田信吉(信之の長男)のもとに送り届けるため、人を添えるとまで申し添えた。しかし、大助は特に返答することもなく、ただ念仏をひたすら唱えるだけだった。

 

 その後、秀頼やその家臣が次々に切腹すると、大助は鎧を脱ぎ腹を十文字に掻き切った。まだ、16歳という若さだった。こうして大助は名門真田家の名に恥じない、潔い最期を遂げたのである。

 

 大助の最期を知った人々は、「さすがに武士の子である」とその死を惜しみ、同時に最大の賛辞を送ったのである。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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