大坂の陣での真田信繁の最期を巡る謎
歴史研究最前線!#068 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉞
謎に包まれたままの信繁の最期

大坂夏の陣で、真田信繁が討死したと伝わる安居神社(大阪府大阪市天王寺区)境内内にある「真田幸村戦死跡之碑」。その隣には腰を下ろしひと休みしている様子の信繁の銅像が立っている。
元亀3年(1573)の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いにおいて、家康と織田信長の連合軍は武田信玄に大敗北を喫した。武田氏の猛攻に恐怖した家康は脱糞したといわれ、その絵も残っている(この点については、現在否定的な見解が多数である)。
家康の本陣の旗は、逃げる徳川方の兵に踏み潰される有様だった(『三河物語』)。信繁との戦いは、それ以来の大敗北であったという。
徳川方の史料『駿府記』や細川方の記録にも徳川方が劣勢で、信繁が戦いを有利に進めたと書いている。
二次史料とはいえ、徳川方の史料が正直に記しているので、信繁の軍勢が家康を相手に有利に戦ったことは疑いないだろう。
慶長20年(1615)5月7日の信繁の最期については、どのように描かれているのだろうか。これも、いくつかの史料に書かれている。
『綿考輯録』によると、信繁が合戦場で討ち死にしたと記し、これまでにない徳川方の大手柄であると称えられた。首は、松平忠直の鉄砲頭(西尾久作)が獲ったと記している。
ところが、首を獲った状況は、信繁が怪我をして休んでいるところだったので、大した手柄にもならないと評価している。
『慶長見聞記』は、越前松平家の鉄砲頭・西尾久作は、信繁が従者らに薬を与えているときに首を獲ったと記している。
いずれにしても、久作は信繁と戦って首を獲ったのではなく、怪我をした信繁が休んでいるとき(あるいは薬を与えているとき)であったというのだ。そのような理由により、久作の評価は著しく下がっている。
しかし、『真武内伝』には、また別のことが書かれている。信繁は配下の者とともに徳川方に攻撃を仕掛けたが、そのときに久作は器用に信繁の馬の尾をつかんで、進軍を阻んだというのだ。
2人は刀を抜き、白兵戦となった。しかし、すでに信繁はかなりの負傷をしており、疲労もあって馬から転げ落ちた。その隙を狙って、久作は信繁の首を獲ったと伝わる。
信繁と久作が一騎打ちをしたという点については、事実か否かはわかっていない。ただ、久作が信繁の首を獲ったのは事実である。
いずれにしても、信繁が率いる真田勢は、島津氏が「真田日本一の兵」と称えており、後世に伝わるほど高い評価を得た(『薩藩旧記雑録後編』)。ただ、信繁の死をめぐっては、あまりに謎が多いようだ。