真田信繁の配下“真田十勇士”【後編】
歴史研究最前線!#065 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉛
多くの影武者を抱えていた真田信繁

大阪市天王寺区堀越町にある「四天王寺庚申堂」は大坂夏の陣の際に戦場となった。この地で真田十勇士の一人であり、穴山小助が亡くなったと伝わっている。
戦国時代の武将には、影武者が存在したといわれている。たとえば、甲斐の戦国大名・武田信玄には影武者がいたというが、実際には詳しいことまでわかっていない。
そもそも、仮に影武者が存在したとしても、機密漏洩を防ぐ意味で、影武者だった人物の詳細な情報が分かるはずがない。
信繁には、三浦新兵衛国英、山田舎人友宗、木村助五郎公守、伊藤団右衛門継基、林源次郎寛高、斑鳩(鵤)幸右衛門祐貞、望月六郎兵衛村雄の7人の影武者が存在したといわれている。
信繁は彼らに家臣や鉄砲を与え、真田家の旗印の六文銭の甲冑を着せるなどしていた。戦場では遠いところからしか見えないので、本人かどうかはわからなかったであろう。
影武者は、信繁と背格好がおおむね似ていれば、それで事足りたと考えられる。むろん。整形手術などはなかった時代である。
ちなみに、影武者に関しては、次のような狂句が残っている。
「影武者を 銭の数ほど 出して見せ」
銭の数というのは、真田家の旗印の六文銭を意味していると考えられる。つまり、信繁の影武者は、6人もいたということになろうか(先に取り上げたのは7人)。
普通、せいぜい影武者は1人か2人しかいなかったのだろうが、信繁には多くの影武者が存在したので、六文銭にちなんで、このような狂句が詠まれたのだろう。
信繁の影武者としては、御宿勘兵衛のエピソードがよく知られている。それは『真田三代記』などの編纂物に書かれたものである。
大坂の陣がはじまろうとすると、牢人であった勘兵衛は大野治長の配下に加わった。勘兵衛は後藤又兵衛とともに、豊臣方の牢人で武将らしい人物であると、家康に言わしめた豪傑でもある。