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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉙

歴史研究最前線!#063

信繁の配下“真田十勇士”とは[前編]

 

長野県上田市真田にある「猿飛岩」。その名のとおり、真田十勇士の一人である猿飛佐助が、この岩を飛び回りながら修行を積んだと伝えられている。

 前回の続きである。

 

 信繁の配下の者といえば、かつてNHKのテレビ番組で人気を博した「真田十勇士」が有名である。それぞれが特殊な能力を持ち、信繁をサポートしていたことが知られる。まずは、その面々を次に紹介することにしよう。

 

①猿飛佐助(さるとびさすけ)

 信濃鳥居峠(長野県塩尻市から木祖村を結ぶ峠)の出身。甲賀流の忍者として活躍し、霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)のライバルであった。師匠は、戸澤白雲斎(とざわはくうんさい)といわれている。

 

 そのモデルになったのは、当時、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の配下にあった三雲佐助賢春(みくもさすけかたはる)、猿飛仁助の子孫・佐助、伊賀忍者・上月佐助などという説がある。

 

②三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)・伊三入道(いさにゅうどう)兄弟

 二人は兄弟であり、出羽国亀田(秋田県由利本荘市)の出身。関ヶ原合戦で徳川秀忠が上田城(長野県上田市)を攻撃したとき、信繁のもとで戦ったという。

 

 同合戦で敗北すると、二人は信繁に従って九度山(和歌山県九度山町)で生活を共にした。慶長20年(1615)の大坂落城時には、兄・清海は切腹して自分の首を切り落とし、弟・伊三は切腹しながら辞世の狂歌を詠んだという。

 

③根津甚八

 信濃の名族・滋野氏の流れを汲む根津氏を出自とする。父と死別後、海賊となり首領にまでなったという。甚八は信繁が秀吉の命により九鬼水軍の動向を探っている際に会い、配下に加わった。

 

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣では信繁の影武者となり、最期は徳川方に討ち取られた。ちなみに、俳優の故・根津甚八氏は、真田十勇士にちなんで自分の芸名にしたという。

 

④由利鎌之介(ゆりかまのすけ)

 三河野田城(愛知県新城市)主・菅沼氏の家臣。槍と鎖鎌の達人である。賤ヶ岳の戦いで羽柴(豊臣)秀吉方に与し、真田信繁を悩ませるが、そのとき穴山小助との一騎打ちに敗れ、以後は信繁の配下に加わったといわれている。

 

 信繁が九度山(和歌山県九度山町)配流されて後は、江戸で槍の道場を開きながら、家康の動向を探る諜報活動に従事した。

 

⑤穴山小助(あなやまこすけ)

 もと武田氏の家臣であった穴山梅雪(ばいせつ)の甥。武田氏滅亡後、小助は信繁に仕え九度山(和歌山県九度山町)でも生活を共にした。

 

 小助は姫路(兵庫県姫路市)で漢方医をしながら、諸国の動向を探っていた。信繁と体格が似ていたことから影武者を務め、慶長20年(1615)の大坂夏の陣では家康の本陣に突撃し、壮絶な最期を遂げた。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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